カトリックの教え

(教理のノート)チェレスティーノ・カヴァニャ

  1. カトリック信仰の基本、信仰宣言

  2. 神のみ言葉。旧約聖書、新約聖書

  3. イエス・キリスト。歴史のイエスと永遠の存在

  4. 教会の歴史

  5. ミサと一年間の典礼

  6. 教会の7つの秘跡

  7. 道徳、罪と罪のゆるし

  8. 祈り。神様とのつきあい

  9. マリア様と聖人

  10. 教会共同体のあり方、信仰のあかし

















1、 カトリック信仰の基本、信仰宣言



カトリックの教えの基本はミサの時に唱える信仰宣言の中に見られる

1) 天地の創造主、全能の神である父を信じます。

 聖書の神は唯一である。神はおおよそ4000年前にヘブライ人の先祖たちであるアブラハム、イザク、ヤコブに語りかけた。また3200年前にモーゼにご自分の名前(ヤーヴェ=存在の根源)を現し、ヘブライ人をエジプトの奴隷生活から救い出した。
神は慈しみと哀れみに満ち、真実そのもの、愛そのものである。
神は人間にご自分を表したが、神秘的で奥深い者なので、私たちには理解しがたい。そのあり方を完全に説明するのも不可能である。
 教会は旧約聖書の言葉とイエス・キリストの教えに基づいて、神を三位一体として理解した。唯一の神でありながら、三つの位格(働き)をもっている。宇宙万物を創造された御父、人類の救いである御子イエス・キリスト、信者の心を照らし、慰め、力づける聖霊は愛の交わりの中に一体である。
御父は宇宙と万物を創造されたが、すべての物に命を与えたみ言葉(ロゴス=生命の原理)はイエス・キリストである。イエス・キリストは人間でありながら神であるという二つの本質の持ち主で、聖霊は神の息吹であり、イエス・キリストの霊でもある。
 神は全能である。矛盾と思える世界の苦しみや正しい人の死も、神のみ心の中で深い意味を持っている。それがわからないのは人間の理解力に限度があるためである。神は父である。すべての物に命を与え、その命を大事に養い育てる。神は創造主である。天と地、見える物と見えない物、すべては神から形作られている。聖書は物語の形で天地創造を記すが、どのようにできたとしても、それは神の働きである。仮に自然の諸々のいのちに進化があるとしても、それは神が造った万物のあり方である。

2) 父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じます。

 子供が親の姿であるように、イエス・キリストは御父の姿である。しかもひとり子のように、彼だけが御父のすべてを私たちに表した。別の言い方をするならば、御父が私たちのような体を取って(受肉)世界を救うために人となったのである。
 イエスの誕生は神秘的である、すなわち他の人間と違いおとめマリアから聖霊の力によって生まれたのである。三十歳余の短い人生の最後の三年は、知恵に満ちた言葉と不思議なしるし(奇跡)によって神の国と御父の愛を教えた。その正しい教えは当時のユダヤ教の空しさの批判となったので、邪魔者のように憎まれ逮捕されて、十字架に張りつけられて殺された。彼は万能の神であるにもかかわらず、人の憎みや殺意にも勝る神の愛を証明するために、殺されるがままに任せた。人の力ではなく、愛だけが人の心にふれ、改心させ、人を救うのである。
 イエスは死んでから三日の後、神によって復活させられ、永遠の命を与えられた。人類の未来の姿である、痛まない、腐らない、時間と空間に制限されない、栄光の体を受けた。しばらくしてから天に昇って、御父と一体となり、宇宙万物を支配している。

3) 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠の命を信じます。

 すべてのものに命を与える神の息吹、イエス・キリストの魂である聖霊は、イエス・キリストを信じる人に洗礼の時に与えられる。聖霊はイエスが昇天した後、使徒たちの上に下り(聖霊降臨)教会を誕生させた。恐れて、なにもできない使徒たちはこの体験ですっかり変わって力と勇気に満ちた偉大な宣教師になった。洗礼を受ける人にも聖霊は信仰と新しい命を与える。また堅信の時に聖霊の恵みの完成と聖霊のたまものが与えられる。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善良、誠実、柔和、節制である。」(ガラテヤ5、22)

 教会はイエス・キリストを信じて、イエスに従う信者の集会で、「神の民」、「キリストの神秘的なからだ」、「聖霊の神殿」と言われている。
教会は「一つ」である。神が一つであるように、信仰も一つ、教会も一つ。歴史の中では分裂が起こったが、全宗派は同じキリストの教会であり、違いを乗り越えて完全な一致を目指している(教会一致運動)。
教会は「聖なるもの」である。参加している人は罪によって教会を汚し、堕落させることがあるが、教会そのものはキリストのからだとして完全無欠である。
教会は「普遍」である。教会はある民族のものではなく、全世界にあまねく拡がり、どの時代にも続くものである。(カトリックという言葉は、普遍的、国際的という意味である)。
教会は「使徒伝承」である。教会は使徒(イエスの12人の弟子)から伝わってきたものである。使徒たちの後継者は「司教」といい、2000年の間次々と受け継がれている。

 聖徒の交わり。ミサの時に受ける御聖体(キリストの体)を通してすべての信者は一つに結ばれて、常に交わり、交流している。この世に生きている信者も、亡くなって罪の償いの清めを受けている死者も、天国で神とともにいる聖人も、キリストの体のうちに交わっている。聖人は、生きている人も、清められている死者も助ける。生きている私たちは、聖人から見守られて、祈り、ミサ、善の行いを捧げることによって死者の霊魂を助けることができる。

 罪のゆるし。人間の弱さのため、神に背いて罪を犯すことがしばしばある。しかし信者が深く反省し、立ち直る努力をすれば、どんな大きな罪もゆるされる。まず洗礼の時に表す信仰によってゆるされる。そしてその後はゆるしの秘跡を司祭から受けることでゆるされる。キリストが弟子たちへ罪をゆるす権限を与え、その権限は教会の中で司祭に与えられている。小罪は深い反省と秘跡(ご聖体など)によってもゆるされる。

 からだの復活。人が死ぬとき、体は腐敗するが、霊魂は永遠に生き続ける。そして世の完成の時にイエス・キリストのように栄光の体を受ける。パウロは次のように教えている。「もし、イエスを死者の中から復活させたかたの霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させたかたは、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8、11)復活の具体的な様子は誰も分かっていないが、聖霊を受けていることはその保証である。

 永遠の命。人の死は滅びではなく新しい命への門出である。死の直後は個人の審判があり、清い者は天で聖人の集いに迎えられ(天国)、罪の償いの必要な者は天に入る前に清めを果たし(煉獄)、罪によって神に背き、神と和解することなしに亡くなる人は永遠に苦しみながら神から離れることになる(地獄)。
永遠の命は人がこの世でどのように生きたかによって決まる。特に死ぬ前に一生の罪を悔い改め、神と和解することが大事である。一瞬の深い反省でもたくさんの罪がゆるされる。教会は臨終にあたって司祭を呼び、ゆるしと聖体の秘跡、病者の秘跡を受けることを強く勧めて、これを「ヴィアティクム」(旅のための食糧)と言っている。司祭に来てもらうのが不可能であれば、そばにいる人は一緒に祈り、死を迎える準備を手伝うことは非常に大事である。
 そして世の終わり(神の国の完成の時)にすべての死者が復活し、イエス・キリストが再び現れ(来臨)、愛を基準にしてすべての人を裁く(最後の審判)。

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2、 神のみ言葉。旧約聖書、新約聖書



聖書の由来と構造

聖書は旧約と新約に分かれている。旧約聖書はヘブライ人(ユダヤ教)の聖典であり、原語はヘブライ語で、モーゼを仲介者とした神とヘブライ人との契約が中心である。
新約聖書はイエス・キリストの教えと教会の始まりの記録で、原語はギリシャ語(当時の国際語)である。これは神がキリストを仲介者として全人類と結んだ新しい契約である。

 旧約聖書は大勢の人が手がけて、数百年の間に書かれたものだ。ヘブライ人の歴史の最初の出来事は口伝えで、歌や詩の形で親から子へと伝えられた。ダビデ王の時代からエルサレムで、ある人(ヤーウィスト、神をヤーウェと呼ぶ)は伝わってきた話と当時の出来事を文書として記録し始めた。その少し後、北王国で、他の人(エロイスト、神をエロイムと呼ぶ)は同じ作業を行った。バビロニア捕囚の後、みんなの信仰を盛り上げるために、エルサレムの祭司たちはヤーウィストとエロイストの記録や他の伝説、詩歌、預言者の書を編集して旧約聖書ができた。
ヘブライ語やアラム語で書かれた旧約聖書は紀元前250年頃にギリシャ語に訳されて(70人訳)、地中海沿岸の国に広まった。

 新約聖書はイエス・キリストの死後、弟子たちがその言葉と行いの記録を集めて、4福音書が編集された。その後、初代教会の出来事、弟子たちの手紙などを加えて、新約聖書と旧約聖書がキリスト教会の聖典として使用された。
 西暦404年に聖書全体のラテン語訳(ヴルガータ)が行われ、旧約聖書に紀元前6世紀と2世紀の間にできたいくつかの書が加えられ、それが今日までカトリック教会で使われている。プロテスタント運動が始まった時(16世紀)プロテスタントの諸教会はラテン語訳の時に加えられた書を除いたが、今の日本語新共同訳ではこれらの書は「旧約聖書続編」として扱われている。

旧約聖書には次の書がある。
歴史の書。17書 (創世記〜エステル)天地創造の諸物語。アブラハムと族長の時代。エジプトからの脱出(モーセ)とカナン(パレスチナ)への侵入、ダビデ王とソロモン王の黄金時代。国の分裂、イスラエル(北王国)とユダ(南王国)。バビロニアの捕囚。帰還と国の再建。
    知恵の書。5書(ヨブ記〜雅歌)。ヨブ記、苦しみの問題について。詩編、ダビデやソロモン王の詩歌や祈り。箴言、ことわざ。コヘレトの言葉、無常観について。雅歌、愛の歌。
預言者の書。17書。神からそのみ言葉を人に伝えるために召し出された者の書。残した書の大きさによって4人(イザヤ、エレミア、エゼキエル、ダニエル)は大預言者と言われ、他の12人は小預言者と言われている。
旧約聖書続編(13書)には色々な種類の書が含まれている。

新約聖書には次の書がある。
4福音書。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる、キリストの生涯や教え。
使徒言語録。初代教会の記録。
パウロの手紙。パウロが創立した色々な教会への手紙。
他の使徒の手紙。ヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダ。
ヨハネの黙示録。 象徴的に教会の歴史や人類の未来が暗示されている。


聖書の歴史

1) 旧約聖書。

旧約聖書とは、一口にいえばユダヤ(イスラエル)人という民族の歴史である。しかしただ普通の歴史ではなく、彼らがその信じる神とのかかわりの中で、どのように生きたかという点を中心とした歴史である。彼らは、その先祖アブラハムの時代以来、自分たちが神に選ばれた民であることを自覚していた。その選びの目的は、彼らだけがえこひいきされ、いい目に遭う、あるいは他民族の上に立って支配し指導する、などのためではなく、他者のためにとりなし、他の諸国民を神の祝福に導くためであった。
 ところがイスラエルは、この「選び」を自己中心的に理解し、誤った選民意識のとりこになってしまった。自分が他者のためにあると考える代わりに、他者(神さえも)が私のために存在するという罪深い態度をとり、選んで下さった神の目的に最も反するものとなったのである。そこで神はイスラエルを裁くことになり、その国は敗戦と亡国を経験することになった。 この悲劇の歴史の中で、イスラエルの道徳的責任を説き、悔い改めを同胞に命じたのが預言者といわれる人たちであった。彼らは、神の厳しい裁きを告げただけでなく、神の真実とあわれみのゆえに、未来の回復と希望を語り、特にその中心となる救い主の到来を予言したのである。

2) キリストの出現

紀元前587-586年、ユダの国は、当時の世界帝国だったバビロンに撃ち破られ独立国を失った。しかしこの民族は神に希望をかけて、絶えまない逆境の中に生き続けた。
彼らを征服した諸帝国は、次々と倒れ消滅し、ペルシャ、ギリシャ、ローマと、支配者は交替し、そしてこのローマの支配下の時代に、北部パレスチナのガリラヤ地方、ナザレの村にイエスが現れた(出生はベツレヘム)。それ以前からユダヤ人の中にはメシヤ(ギリシャ語でキリスト、救世主の意味)の出現が待望されていて、このイエスこそメシヤだという声が民衆の中にささやかれた。事実、イエス御自身もメシヤとしての自覚を持って活動し、教えられたのである。
 しかしその説くところは、民衆の期待した政治的独立運動とは違っていた。そして民衆の失望に、当時の宗教的指導者の反感などが重なって、イエスは捕らえられ、ローマ派遣の総督ピラトの裁判のもとに十字架刑に処せられたのである。
その直前まで従っていた少数の弟子たちも、師を見捨てて逃亡し、失意のどん底に陥った。ところが約50日後、この臆病で無力だった弟子たちは、人が変わったように勇気と希望に満ちて、イエスが殺された都の真ん中で人々の罪を責め、イエスは神の子であること、よみがえったこと、その十字架は人間の罪をゆるすためであることを宣言した。この時からキリスト教会が始まったのである。

3) 新約聖書の歴史

イエスの生涯と死と復活は直接の目撃者である弟子たち(使徒と呼ばれた)によって、語り伝えられた。彼らはどんなに脅かされても、「私たちはそのことの証人である」(使徒5、32)と言って、イエスが神の子であり救い主であることを世に伝えることをやめなかったのである。
 地中海をとりまく世界に、信じる者が広まるにつれ、使徒たちは、走り廻ってもなお追いつかない状態となり、この信徒たちの信仰を養うために、手紙の形で信仰の道について様々な指導を与えた。これらの手紙の中の21巻が、今日新約聖書の中に残されている。またイエスの言葉と行為、特にその十字架と復活を語ることのできた使徒たちが、徐々に殉教して世を去るにつれて、教えがゆがめられないように書き残して後世に伝える必要が生じてきた。こうして4巻の「福音書」が、4人の弟子たち(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の手によって記されたのである。
 そして初代教会がどのようにして生まれ、発展していったかを知るうえで極めて貴重な歴史である「使徒の働き(使徒行録)」1巻が書かれ、最後に、教会とこの世界の未来を語る預言的な性格を持つ「黙示録」1巻が著された。

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3、 イエス・キリスト、歴史のイエスと永遠の存在



イエスの子供と青春時代

 イエスは処女マリアの子で、紀元前4年頃の人口調査の時に、ユダヤのベツレヘムで生まれた。子供時代についてマタイとルカはいくつかの物語(マタイ1ー2章、ルカ1ー2章)を残したが、マルコとヨハネは触れていない。小さいときは普通の子供で、大工の息子としてガリラヤのナザレで過ごした。

 宣教活動の前に砂漠で修行した。(マタイ4、1-11)(死海文書を残したエッセヌ派との関係も考えられる)。西暦27年に、ヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネに会って(マタイ3、13-17)、清めの洗礼を受けてから12人の弟子を集めて(マタイ10、1-4)、公の宣教活動を始めた。

3年間の宣教

 最初はガリラヤを中心に神の国の教えを広めた。神の国(理想的な世界)はいと近いものだ、人が心を変えて悪と憎しみを捨てて隣人を愛すれば、世界は変わるのだ。この教えをわかりやすくたとえ話で伝え、不思議なしるし(奇跡)で多くの人を納得させた。ご自分の救い主としての使命は、イザヤ預言者が語った「ヤーヴェのしもべ」と同じものだと思っていた。
 「主の霊が私に臨み、油を私に塗った。主が私を遣わしたのは、貧しい人に福音を伝え、捕らわれ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫された人を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるためである。」(ルカ4、18-19)
しかし彼が厳しく批判したユダヤ教の指導者とのトラブルが深刻になり、ガリラヤを離れて、フェニキヤやサマリア地方、やがてユダヤの方へ活動を移した。(マタイ12、9-14)
3年目(西暦30年の春)、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムを訪問した時に、一時民衆から救い主として迎えられた(マタイ21、1-11)が、祭司と律法学者によって逮捕され、死刑(十字架の張り付け)に処せられた。(マタイ26、47〜27、66)

イエスの受難と死

 イエスの宣教活動はわずか3年で終わった。大変魅力的な方で、その知恵と不思議な力のためにしばらく人気の絶頂に在った。でも彼は奇跡を求める民衆に「心を変えて悪を捨てなさい」といい、ローマと戦って自由な国を造ろうとしていた熱心党の人(パルチサン)へは「憎しみを捨てて敵をも愛しなさい。」と言い、ユダヤ教の空しさを厳しく批判し、自分を救い主と主張したがユダヤ教の指導者は認められなかった。
彼はヘブライ人が持っていた救い主のイメージ(ダビデのようなすばらしい王としてローマ人を追い出して新しい国を造る強い人)とあまりにも違っていて、期待はずれの救い主であった。
しかし彼は死ぬことを神から与えられた自分の使命として受け入れた。死は新しい命に入るための門であることを知っていたからである。

イエスの復活

 イエスは亡くなって三日後に、納められていた墓から消えた。その後何回か弟子たちに現れて、みんなを力づけた。死は終わりではない。新しい命が待っている。しかし彼の体は普通の体ではなく、みんなと一緒に食べたり、触ってもらったりしていても、時間と空間に束縛されず、自由に瞬間的にどこへでも移動できる体であった。(ヨハネ20−21章) そして天の父のところへ戻ると言って、弟子たちが見ている前から離れて、宙に上がって、雲の中に消えた。(使徒言語録1、3-11)
弟子たちは、彼がいつも信じる人と一緒に生きている永遠の存在であること、宇宙の初めから神とともにおられる御子、人間の姿をとった神、すべての人に救いをもたらすみ言葉であることを理解した。(ヨハネ1、1-18;フィリピ2、6-11)

永遠の存在イエス・キリスト

 イエスは「私は世の終わりまで、あなたがたと共にいる。」と死ぬ前に弟子たちに言った。この言葉は弟子たちの心の中に思い出として残るという意味ではなく、時間と空間を超えた次元で、いつの時代にも、いかなる所にもイエスは存在し、働き、すべての人を愛し続け、すべての人に救いを与えるという意味である。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(マタイ18、20)。
私たちは集まって祈りをするとき、また人々を愛するとき、愛であるイエス・キリストに出会うことができるのである。

神の言葉としてのキリスト

 「始めにみ言葉があった、み言葉は神と共にあった、み言葉は神であった。み言葉は肉となって私たちのうちに住まわれた。この生命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1、1...)
キリストは神の言葉である。永遠の始めからすべてのものを創造し、命を与える神の言葉。(これはギリシャ語で「ロゴス」と言い、存在の原理という意味もある。)
 イエスは「神の国」を中心に教えを展開した。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1、15)預言者たちが約束した新しい世界、理想的な世界、平和と幸せの世界(イザヤ2、2-5; 11、6-10)は実現可能である。人々から遠いものではない、すぐ身近にある。人々が心を変えれば、世界全体が変わる。これを悟って、神の国の新しい命に生きるためには悔い改め、心と生活の転換が必要である。(回心) イエスは色々なたとえで神の国のことを説明した。

1)悪の力が邪魔しても神の国は確実に育つ。
 畑に種をまく人(マルコ4、1-29)、からし種とパン種(マルコ4、30-32)、   毒麦のたとえ(マタイ13、24-30)
2)努力して、いつも準備していなさい。
 狭い戸口(ルカ13、22-30)、10人の乙女たち(マタイ25、1-13) 神の国の幸せを示す大宴会にみんな招かれているがふさわしい人は少ない。 (ルカ14、15-24)
3)いつも自由な心を持って、物や財産に執着しない。
愚かな金持ち(ルカ12、13-21)、金持ちとラザロ(ルカ16、19-31)、金持ちの青年(マタイ19、16-24)、思い悩むな(ルカ12、22-34)
4)新しい生き方。
山上の説教(マタイ5、1-12)

愛とゆるし

 神がすべての人を愛し、だれでも自分の子供のように大切にしていることを教えた。これは希望を与える言葉で、私達を神の方へと導いてくれる言葉である。「あなたの罪はゆるされた。」 人々から見捨てられた者を探し、人からあなどられた徴税人の所へ行く。生活のために自分の体を売っていた女性に新しい希望を与える。罪を犯した者にキリストはゆるしを与え、新しい人間として生きることができるように導く。

1)神の無限の愛と慈しみに習う。
 見失った一匹の羊、落とした銀貨、放蕩息子と優しいお父さん(ルカ15、1- 32)
 徴税人のザカイ(ルカ19、1-10)、善きサマリア人(ルカ10、25-37)
 最後の審判 (マタイ25、31-46)(神の裁きは愛を問う)
「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13、34-35)
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」 (ヨハネ15、12-15)。

2)罪のゆるしを通して本当の愛が現れる。
 腹を立ててはならない(マタイ5、21-26)、 
復讐してはならない、敵を愛しなさい (マタイ5、38-48)、
人を裁くな(ルカ6、37-42)、
仲間をゆるさない家来のたとえ(マタイ18、21-35)、
イエスは罪深い女をゆるす(ルカ7、36-50)、
 姦通の女をゆるす (ヨハネ8、1-11)

奇跡を行なうキリスト

 主イエス・キリストは大きな力、神の力を持って色々な奇跡を行なった。これは人を引き付ける手段ではなく、いつも働いておられる神の救いの力を表わす「しるし」である。不完全なものを完全にし、病気を治し、縛られている人を解放し、すべてが完全に生きるための力である。
 イエスは教えている時、その時そのときの必要に応じて、または人に頼まれて多くの不思議なこと(奇跡)を行なわれた。分類してみると、

1)病人をいやす。 障害者(マルコ1、29-34)、らい病者(ルカ17、11-19) 悪霊にとりつかれた人(一部は精神病?)(マルコ9、14-29)
2)死人をよみがえらせる。友人のラザロ(ヨハネ11、1-44)、やもめの息子(ルカ7、11-16)、12歳の少女(マルコ5、21-24; 35-43)
3)自然の法則を超えた出来事。カナのぶどう酒(ヨハネ2、1-12)、嵐を鎮める (マルコ4、35-41)、湖上を歩く(マタイ14、22-33)、パンを増やす(ヨハネ6、1-15)
4)イエスご自身の不思議な誕生(ルカ1、26-38) イエスの復活と昇天(マタイ28、1-10)(マルコ16、1-8; 19-20) (ルカ16、1-8; 使徒言行録1、6-11)(ヨハネ20章)。

十字架を担うキリスト

 新しい教え(自由、希望、解放を与える教え)を携えて来たキリストは無視され、捕らわれ、十字架にかけられたがキリストの十字架によって人類が救われた。
「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシャ人であろうが、召された者には神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Tコリント1、23-25)
イエスの死は失敗のように見えるが、これは世界を救うための新しい知恵である。人の力より、愛が人の心にふれてその人生を変える。暴力や革命ではなく、愛だけが世界を変えていくのである。イエスに従う者も同じように、自損を覚悟して愛の力で世界を変えていく。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ8、34)そしてイエスと同じように死を通して復活の新しい命に入る。

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4、 教会の歴史



イエス・キリストの復活後、50日目に聖霊降臨があった。弟子たちが集まっていた部屋に火の玉の形をした聖霊が現われ、炎がそれぞれの上に降りた。その時から弟子たちは聖霊に満たされ、新しい心と勇気を与えられ、突然開かれた新しい時代に向かって飛び込んで行った。弟子たちはイエスが言われた通り、人々にナザレのイエスのことを伝えたのである。(使徒行録2、1ー8)
最初、弟子たちはエルサレムを活動の拠点にしていたが、迫害が始まって各地に散り、海外にも、ローマにも渡った。そして使徒たちの先頭に立っていたペトロが活躍し殉教したローマの教会が、エルサレムの教会に代わって全教会の中心的役目を果たすようになり、その責任者は他の全ての教会からも指導者として認められるようになった。そのため今日でも、ローマ教会の責任者(教皇)は、ペトロの後継者と認められ、全世界に広がる教会の最高責任者として、まとめ役を果たしているのである。各地に生まれた教会には、それぞれ世話役が決められた。その役目は今日の司教や司祭たちとほぼ同じである。

宣教によって各地に生まれた教会では、信仰の面で色々なことがあって、始めから異説を広める人々がいた。(ヨハネの第一の手紙、4、1) ペトロがまだエルサレムにいた時期にも、ユダヤ教の割礼やモーセの律法をどうするかについて、使徒たちが集まって討議し、守るべきことを決定したこともある。(使徒行録15章)
特に四世紀になって、「キリストは神ではない」というアリウスの異説が広がった。別の時代にも別の異説が広まったことがある。こうした異説が広まると、その時代の司教たちは各地から集まって、ローマ教会の責任者を中心に、教会に伝えられて来た正しい信仰を再確認した。このような集まりを公会議と言っている。また各時代の教会博士(教父)たちも、使徒伝来の教えを忠実に宣べ伝える大切な役割を果たしたのである。

各地に教会が広がり始めた初期の頃から、同じ信仰を守りながらも、国々の言葉や風習の違いによって二つの流れがあった。
一つはローマを中心にした国々の教会。これらの教会ではラテン語が使われていたので、ラテン教会とも呼ばれている。ローマを中心に西ヨーロッパ諸国、アメリカ、そして16世紀には海上貿易の影響を受けて、東洋にもこれに属する教会ができた。
他の一つは、同じ信仰を持ちながら、それぞれの自国語を使用していた教会で、一般に東方教会と呼ばれている。ギリシャを中心とし、シリア、エジプト、ロシア、そしてインドまで広がっていった。典礼の形式は前者と大変違う感じがするが、信仰の内容は同じである。この二つの流れは、2000年の長い歴史を経て、様々な国の言葉や風習の違いから、政治的対立などもあったが、結局、皆同じ神を信じ、同じ聖書から神の言葉を聞き、同じイエス・キリストと共に歩む「神の民」と言うことができるのである。

これらの他に、16世紀頃、教会の指導者たちの間には、世俗の欲にとらわれる傾向が強まり、これを刷新する運動が起こった。この運動は、ローマ教皇や司教などの教会の指導権を拒否し、それまで続いたカトリック教会を批判し、抗議するもの(プロテスタント)の運動と言われ、北ヨーロッパ(ドイツを始め、スカンジナビア、イギリス)に起こった。この運動は数多くの宗派に分かれながら、現代まで続いている。日本では「新教」と言われ、それぞれの宗派の宣教者によって、それぞれの宗派のまま伝えられ、受け入れられているのである。
最近になって、初代エルサレムの信者の共同体が歩んできたように、再び一つの信仰、一つの洗礼に結ばれて、一つの群れとなるようにとの機運が高まっている。特に第二バチカン公会議からキリスト教の諸宗派に対して、または諸宗教と社会全体に対して、開かれた態度をとっているのである。

教会の歴史において修道生活は、非常に大切なものである。これはキリストの言葉「あなたがもし完全になりたいなら、持ち物を売りに行き、貧しい人に施しをせよ。それから、私について来るがよい。」(マタイ19、21)に基づいている。人々は何世紀にもわたって色々異なった方法でこのキリストの勧めに応じて来た。
 3世紀頃からエジプトのアントニオの様に、ある人は一人で修行するために砂漠へ退いた。その後、このような修行者は一緒に住むようになって、自然に修道院ができた。共同生活を営むのに、一番最初、清貧と純潔と従順を中心としたエジプトのパコミオの戒律ができた。次第に各地に修道院の数が増え、バジリオの戒律は東方に、ベネディクトの戒律は西方にそれぞれの修道院に採用された。ベネディクトの戒律に従った者は、ヨーロッパの文化(農学、科学)の設立と宣教に特に功績を立てた。

 13世紀に活気のある二つの修道会が設立された。フランシスコ会の者は貧しい生活を送り、神と人々のために生き、布教することを目的とした。ドミニコ会員は研究と説教とで布教に従事した。

 16世紀にイグナチオはイエズス会を創立して、世俗に一層近い修道生活の規範を創った。イエズス会は特に各国への福音宣教と若者の教育に力を入れるようになった。 近代において、新しく設立された修道会や在俗霊的団体のメンバーは、福音的勧告に従いながらも、なお世俗により深く入り込んでいるのである。

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5、 ミサと一年間の典礼



(1)ミサ(聖体祭儀)について

 ミサは、主イエスの死と復活を記念するために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。ミサは「主の晩餐」とも言われ、主の最後の晩餐をキリストの弟子たちが繰り返して行ない、それが次第に儀式化したものである。
ミサはまた、十字架のいけにえ(イエスがご自分の命を捧げたこと)を永遠に行なうことにより、神の救いが時間と空間を超えて、もう一度私たちの前で再現されます。キリストはその名のもとに集まっている集会において、パンとぶどう酒の形態のもとに現存し、参加する人々に神の救い、その祝福、愛と力を与えるのである。

 神の恵みにあずかるために、ふさわしい準備と心構えが必要である。特に、

◆ ミサが始まる前から聖堂に入り、静かに祈りながら日常生活のことを忘れて、心を落ちつかせる。遅く入ったりすると全体の雰囲気を乱すから、余裕をもって教会へ出かける。

◆ ミサにはみんなの積極的な参加が必要である。なるべく祭壇の近くに座り、心をこめて歌を歌い、祈りを唱える。心を一つにして、キリストの神秘的な聖餐にあずかる。

 ミサは、「言葉の典礼」、「感謝の祭儀」の二つの部分からできているが、もっと詳しく言えば、

1、開祭の儀。回心
神様との関係を深めるために、日々の生き方を反省して、それを改める決心をする。

2、言葉の典礼。聖書の朗読
ミサで読む聖書は、一年にわたってイエス・キリストの神秘と神の救いの働きを説く。説教は聖書の説明とみ言葉を自分の生活に当てはめるためのヒントである。聖書を理解するために、ミサ以外でも聖書を読み、少しでも勉強することが必要である。

3、感謝の典礼。最後の晩餐の記念(Tコリント11、23〜26) 
その時、わたしたちが神にささげるパンとぶどう酒はキリストの御体と御血になる。

4、交わりの儀。御聖体拝領
キリストの御体をいただいて、キリストと一つになり、皆でキリストの神秘体を構成することになる。これはカトリック教会で一番大事なものとして洗礼を受けた人だけに与えられる。洗礼を受けていなくても、ミサに参加する一般の方や求道者は、この時司祭から祝福を受けることができる。

5、閉祭の儀。行きましょう、主の平和の内に
キリストが最後の晩餐の中で弟子たちを世に送り出したように、ミサにあずかる人々は世に送り出されて行く。信仰は現実の世界、自分の日常生活の場であかしするものである。


(2)教会の一年間の典礼

 教会の典礼は、12月の初めから始まり、次の年の11月で終わります。
ミサの時の司祭の祭服の色は「緑、白、紫、赤」の四色がある。
「緑」は年間の色、普通の色、特別な祝いがないときの色。「白」は喜びの色として、大きな祝いの時、特にイエス様とマリア様の祝いの時に使う。「紫」は灰の色とされて、悲しみの時、犠牲と節制を呼びかける時に使います。クリスマスの前の準備の時期(待降節)、復活祭の前の準備の時期(四旬節)、また死者のミサの時に使う色です。
「赤」は血の色、また火の色、これはイエスの受難、聖霊降臨、また殉教者の記念日に使う色である。

 一年間の典礼は、クリスマスと復活祭(イースター)という二つの大きな祝い日を中心として展開する。

◆ 待降節  クリスマス前の4週間は「待降節」と言う(祭服の色は紫) 降誕祭(クリスマス)を待つ時期、救い主の降誕を待ち望んで、心の準備をする時期である。

◆ 降誕節  12月24日の夜と25日は「降誕祭」(クリスマス)である(色は白) イエス・キリストの誕生を祝う日である。クリスマスの後に、イエスの誕生の喜びを表わす「降誕節」が続く。
 クリスマスの次の日曜日は「聖家族」の祝日で、イエス、マリア、ヨゼフの模範的な家庭を仰ぎみて祝う。特に私たちの府中教会は聖家族に捧げられていて、大きな意味をもつ祝日である。
 降誕節の中の「主の公現」(1月6日、またその前後の日曜日、色は白)は特に大事にされている。三人の博士たちに現われたことによって、イエス・キリストがご自身を全人類に現わしたことを記念する祭日である。

◆ 年間主日  降誕節の後に、数週間「年間主日」がある(色は緑)特別な祝いがなく、普通の日曜日である。

◆ 四旬節  復活祭の前の40日間は「四旬節」と言う(色は紫)灰の水曜日で始まるこの時期に、特に祈りと断食と節制によって心を清めて、復活祭を迎える心の準備をする。

◆ 聖週間  復活祭の前の一週間は「聖週間」と言う。
・枝の祝日(復活祭の前の日曜日、色は赤)イエスがエルサレムに歓迎されたことの記念。
・聖木曜日(色は白) 主の最後の晩餐の記念。
・聖金曜日(色は赤) 十字架を礼拝しながらイエスの死を記念する。
・聖土曜日(色は白) 復活の前夜祭。この夜から復活祭が始まり、イエスがよみがえられたことを記念する。この夜は、火と水の祝福と洗礼式が行われる。
復活祭はいつも日曜日に行なわれ、日にちはヘブライ人の過越の祭に従って、三月の末から、四月の末の間で毎年変わる。

◆ 復活節  復活祭の喜びは、その後も「復活節」(6週間)の間に現される。この時期にイエス・キリストに対するいろいろな祝い日が集中している。
・ 主の昇天(色は白) (復活祭の6週間後)イエスが弟子たちの目の前で天に昇ったことを記念する(使徒行録1、6〜11) 
・ 聖霊降臨(色は赤) (復活祭の50日後)聖霊が弟子たちの上に降りて教会が誕生した出来事の記念である(使徒行録2、1〜13) 
・ 三位一体(さんみいったい、色は白) (聖霊降臨の次の日曜日)神様は唯一の神(一体)でありながら、三つの位格(父と子と聖霊)として現われていることを祝う。
・ キリストの聖体(色は白) (三位一体の次の日曜日)イエス・キリストの体はパンとぶどう酒の形で永遠に教会の中に生きている記念である。
・ イエスのみ心(色は白) (キリストの聖体後の金曜日)キリストは無限の慈しみによってすべての人を愛し、すべての人の救いを望んでいることを祝う。
・ 主の変容(色は白、8月6日) イエスが弟子たちに栄光の姿を見せた記念である(ルカ9、28〜36)

◆ 年間主日  この後しばらく「年間」(普通の時期 − 色は緑)が続く。

11月に二つの大事な祝いがある。
◆ 諸聖人  (11月1日、色は白) すべての聖人、神と共にいる知られていないすべての人を祝う日である。
◆ 死者の日 (11月2日、色は紫) すべての亡くなった人のために祈る日である。

 「年間」は全部で34週間ある。その最後の日曜日は
◆ 王であるキリスト と言う。(色は白) イエス・キリストが全宇宙とすべての万物を支配していることを祝う日である。この後はまた新しい一年の待降節に入る。

◆ マリア様の祝日  
また一年の間にいくつかのマリア様の祝い日もある。
・ 1月1日  [神の母マリア] イエスは御父(創造主)と一体ですので、イエスを生んだマリアは神の母でもある。
・ 3月25日  [天使のお告げ] 大天使ガブリエルがナザレの処女マリアに、救い主の母になることを告げた記念日である。
・ 8月15日  [聖母の被昇天] マリア様が亡くなってから天使によって天国に運ばれて、天国の栄光にあずかるものとなった記念である。
・ 10月7日  [ロザリオの聖母] マリア様への信仰を深めるものとして、ロザリオの祈りを勧める日である。
・ 12月8日  [無原罪の聖母] 救い主の母に選ばれたマリアは、神様の特別な恩恵によって、罪なき者とされた祝い日である。

 以上のように、待降節、降誕祭、降誕節、年間、四旬節、聖週間と復活祭、主イエスの様々な祝い日、というように典礼の一年が展開する。ミサに参加する度にその日とその時期の意味が分かっていれば、もっと深くイエスの神秘を理解し、積極的に神を讃えることができる。

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6、 教会の7つの秘跡



 父なる神の恵みは初代教会の時代から、現在に至るまで、そして主の来られる最後の日まで、「秘跡」によって教会を通して信者に与え続けられる。秘跡は、人の目に見える物や動作や言葉をもって、神の恵みを実際に与える「しるし」である。
秘跡には、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、叙階、婚姻、塗油、の7つがある。これらはすべてイエス・キリストの共同体を作り、成長させるためのものである。
秘跡は、人生のあらゆる時点で神がキリスト者を訪れ、守り、清め、養い、繁栄させてくださる目に見える力ある「しるし」である。
 この7つの秘跡のうち、洗礼、堅信、叙階のように永久に消えない「しるし」がつけるので一生に一度しか受けられない秘跡と、ゆるし、聖体のようにできるだけ多く受けることをすすめられている秘跡とがある。
 大人が受洗する場合には、洗礼、堅信、聖体が同時に授けられ、「成人のキリスト教入信式」と言われている。


(1) 洗礼

洗礼は、イエスがキリスト(救い主)であることを信じ、その福音に生きようと決心し、受洗の希望をあらわした者に授けられる。洗礼によって、イエス・キリストの言葉を受け入れ、神の子として生まれ変わり、共同体の一員となるのである。しかるべき求道期間(1年ぐらい)のあとに、入門式を経て洗礼を受ける。「しるし」として頭に水をかけられるが、これは本来は実際に泉か川の水に沈み、「キリストと共に死に、新しい命に生きる」という意味をもっている。教会に受け入れられたことを表す十字架のしるしを受け、キリストと一体となったしるしである聖香油を額に塗られる。新しい生き方を示す「白い衣」と、キリストの光のろうそくと、洗礼名を授けられる。また信仰の先輩である代父・代母は受洗後も信仰の成長を助ける。
 教会は小さい子供にも洗礼を授ける習慣がある。(幼児洗礼) 子供がわからなくても、信者である親は子供に代わって信仰を表明し、信仰のうちに育てる責任を果たす。 洗礼は普通、司教、司祭や助祭が授けるが、非常の場合にはだれでも授けることができる。頭に水をかけながら「教会の信仰に基づいて、父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と言って授ける。その後、教会の主任司祭に報告し、教会の洗礼台帳に記録する。
しかし洗礼を有効なものとするためには、授けてもらう人が教会の基本的な教えを信じ、洗礼を希望することを何らかの方法で表すことが必要である。洗礼を望まない人、意識のない人や亡くなった人に洗礼を授けても有効ではない。臨終洗礼は意識があるうちに、洗礼を希望する人に授けるのである。


(2)堅信

洗礼の時に受けた神の恵みと聖霊の力は堅信によってさらに豊かに与えられ、信者は共同体の中で根をはり、連帯を深めていく。堅信を通して一人前の信者として積極的に信仰をあかしする使命をも与えられる。
この秘跡を授けるために、司式者は、秘跡を受ける人の額に聖香油を塗り、その人の上に手をかざして(按手)「父のたまものである聖霊を受けなさい。」と唱える。普通、堅信の秘跡を授けるのは司教である。ところで成人の洗礼の場合、洗礼を授ける司祭は堅信も聖体の秘跡をも授ける。幼児のときに洗礼を受けた場合は、原則として高校生のころに堅信を受けることになっている。


(3)聖体

聖体は、パンとぶどう酒の形を取ったイエス・キリストの体であり、イエス様がいつまでも私たちと共に生きているしるしなのである。信者が神の子として教会共同体と一致して生きるための命の糧である。大事なしるしなので、それを意識できない小さい子供には授けない。小学校2年生の頃、一定の準備をすませた後に初聖体を受ける。
パンとぶどう酒の「しるし」には、イエス・キリストの「おん体」と「おん血」が秘められている。同じパンをいただく信者はキリストとの一致を深めると同時に、互いに一つの体、一つの心となる。便宜のため、ミサの中において司祭はパンとぶどう酒をいただき、信者はパンだけをいただくが、パンにも、ぶどう酒にもキリストの体全体が含まれている。大事な主日の時に信者も両形態(パンとぶどう酒)をいただく。
 ミサの中でご聖体をいただくときには、準備が必要である。受けようとしている信者が大罪を犯していれば、受ける前にゆるしの秘跡にあずかり、小さな罪であったら、反省の気持ちとミサのはじめの悔い改めの祈りで心を清める。体の準備として、聖体を受ける前に一時間の断食が求められている。そして受けるときには礼をして、手または口で受ける。席に戻ったら、イエス様が自分の中に生きていることを考えて、しばらく静かに祈りをする。洗礼を受けた小さい子供と洗礼を受けていない求道者は御聖体の代わりに司祭の祝福を受ける。
 病気、衰弱、高齢などの理由で、しばらくミサにあずかることができない人のために、家または病院で聖体拝領をするために司祭(または司教様の許可を得た聖体特別奉仕者)が訪問する。


(4)ゆるしの秘跡

ゆるしの秘跡は、神と教会との和解の「しるし」である。信者は洗礼によってキリストに従う決心をしたにもかかわらず、人間の弱さのためにたびたび罪を犯すことがある。
教会の代表者である司祭に、自分の罪を打ち明けることによって、神のゆるしと心の平安を得て、神との交わりを修復することができる。
 ゆるしの秘跡は司祭のところへ行って、罪を告白し、指示の言葉を聞いて、悔い改めの祈りを唱え、司祭は神のゆるしを与える。その後に司祭が指示した償いの祈りや行いを果たす。もちろん、司祭は聞いた告白に関して絶対に秘密を守る。
ゆるしの秘跡は待降節と四旬節の年2回の共同司式で受けられる外、個別告白はミサの前後、または司祭の都合のいい時にいつでも受けられる。罪がないと思っていても年に一回は、反省と謙遜を学ぶために「ゆるしの秘跡」を受けることが勧められている。


(5)叙階

叙階とは、司祭(神父)に任命される式であり、神のみことばを宣べ伝え、秘跡の祭儀を執行し、神の民を導くためのイエス・キリストの役務者として、神の民より召し出される秘跡である。
神学校で十分な期間、訓練を受けた後、司教が教会共同体の世話と信者の指導のために候補者を叙階する。司祭は一生独身をとおし、福音的な生活を営み、司教への従順を約束し共同体のために働く。
教会共同体にとって司祭は霊的指導者であり、共同体の一致を保つ者である。教会の経済、行事にはなるべく信者がかかわるが、司祭はまとめ役を果たす。


(6)婚姻

婚姻の秘跡は、結婚と家庭生活を祝福する「しるし」である。結婚式は二人が結ばれて新しい家族をつくるための公の約束でもあるが、大事なのは二人の愛の祝福である。夫婦関係に現われる神の愛が毎日深まり、家庭が豊かになり、幸せになるように祝福と恵みを祈る。信者同士の結婚だけが秘跡とされているが、信者とそうでない人の結婚も認められ祝福される。
 教会で結婚をしたい人は、式日と披露宴の場所を決める前にできるだけ早く、その旨を司祭に申し出て、必要書類をそろえ、準備の結婚講座に出席する。やむ得ない事情で教会で結婚式を挙げられない信者は司祭と相談し、教会で結婚を認めてもらうための手続きをとる。
 カトリックは結婚を一生の絆と考え、離婚を認めない。二人が一生つきあっていく準備として、婚約期間を大事にすべきである。結婚式の中で、順境の時も逆境の時も愛と忠実を尽くすことを誓う。もしその後に人間関係の問題が生じたら、思いやりとゆるし合いをもって乗り越えることで、夫婦生活の中に神の愛をあかしする。 


(7)塗油(病者の秘跡)

 この秘跡は、病者の心身の健康を願うものであって、臨終の時だけではなく、年をとった者、生命の危険のある手術の前、また病気などで生命の危険を感じる時などに受けられるものである。周囲にその対象者がいる場合は司祭に連絡する。
 初代教会の習慣に従って、司祭は病人の額と手に司教様が祝福した病人の油を塗って、回復と健康を祈る。
 信徒が死の危険に遭っているときは、なるべく早く司祭を呼ばなくてはならない。病者の秘跡、ゆるしの秘跡および聖体は、その人の救いと慰めのために大きな力を発揮する。司祭に来てもらうことが不可能であれば、そばにいる信者は一緒に祈りをする。
 感情的な騒ぎを抑え、葬式の手配をする前に、臨終の人の死と永遠の命への旅立ちを、祈りの力で助けることはとても大切である。

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7、 道徳、罪と罪のゆるし



神の掟 (十戒)

キリスト共同体の道しるべは、神の法である。この法は聖書の中で、「神の十戒」(出エジプト20・1−17)と呼ばれている。神がその民をエジプトの奴隷生活から解放したのちに、モーセに与えられたものである。
イエスはこの法を廃止するためではなく、完成するために来た(マタイ5・17)。そして、これは現在でも、神を信じる人々にとって、重大な意味を持っている。法は道路標識のようなもので、人々に行くべき道を示してくれる。これは、たしかに旅の安全を保証し、活動の強い導き手ともなるものである。
神の十戒は、古い公教要理の言葉でいえば、次の通りである。

第一 われはなんじの主なる神なり、われのほか何者をも神となすべからず。
第二 なんじ、神の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし。
第四 なんじ、父母を敬うべし。
第五 なんじ、殺すなかれ。
第六 なんじ、姦淫するなかれ。
第七 なんじ、盗むなかれ。
第八 なんじ、偽証するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を望むなかれ。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

1)「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。  あなたには、わたしをおいて、ほかに神があってはならない。」

 現代において、偶像礼拝とは何であろうか。家に御像を置いても、社会的習慣に従って仏前葬式の時に焼香をしても問題にはならない。しかし私たちはいつも神から愛され、毎日生かされていることをしばしば忘れ、人生のすべては神の賜物であることを受け入れず、神への信頼を失うことがある。お守りや占いに頼ること、または財産のため、名誉のため、面目のために心の自由を失うことも「他の神」を立てることになるのである。

2)「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」

ここでは冒涜の言葉もそうだが、神のみ旨が何であるかを考えず、神の名を立てて自分の都合をよくする振る舞いが問題になる。宗教戦争はそのようなものであるが、共同体の中で神の名を唱えて、神の思召しだと言って他人に自分の考え方を押し付けることもたびたび起こるのである。

3)「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日ですから、いかなる仕事もしてはならない。」

人間が健康で、落ち着いて、幸せに生きるために休みは絶対に必要である。仕事の疲れとストレスで性格が暗くなり、いらいらして自分も周りの人をも不幸にしてしまうことがある。教会で兄弟姉妹に会って一緒に神を讃えることで一週間の疲れをいやし、新しい力と勇気を得る。

4)「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」

長寿を得るために父母を敬うことが命じられる。現代の老人の孤独な様子を見ると反省させられる。社会現象であるかのごとく年寄りの親を無視するなら、自分の老後が心配になるはずである。

5)「殺してはならない。」

殺人、自殺あるいは、喧嘩やむちゃな運転による交通事故で人にけがをさせることはもちろんしてはならない。人を殺したり、けがをさせたりしなくても、悪口、告げ口などで名誉を傷つけること、言葉や動作でいじめること、差別すること、または人が困っている時や苦しい時に冷たく無視することも、憎しみやねたみも、みんな人を殺すことと同様のことである。

6)「姦淫してはならない。」

テレビや雑誌で見る限り、快楽は楽しいものであり、不倫や結婚外の性行為も認められているかのように表現されているが、欲望を満たしても幸せがつかめるとは限らない。動作、言葉、思いに現われる性欲をコントロールするのは人間として価値の高いことである。

7)「盗んではならない。」

人の物を盗んだり、人をごまかして利益を上げたり、自分の立場と権限を利用してお金などをもらったりすれば確かに金持ちにはなるが、心の平安と幸せは保証されない。その上、人を苦しめ、世間を汚すことになる。

8)「隣人に関して偽証してはならない。」

偽りはその人の生き方、考え方が誠実でないことを示すし、人間同士の信頼関係を壊すものだ。偽りの証言によって人の名誉を傷つけたら、ゆるしを得るためにその人の名誉を回復することに努めなければならないのである。

9ー10) 「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ロバなど隣人のものを一切欲してはならない。」

不倫の行為と盗みはみんな心の中で始まる。強い欲望から実際の行為に移ることは易しいが、自分のもので満足することは幸せへの道なのである。


 イエスはこのモーゼの律法の十戒を認め、さらに「愛のおきて」を勧めた。
「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13、34)
教会はモーゼの十戒とイエス・キリストの愛の掟を道徳の規準に考えている。
これに背くのは罪である。罪にもいろいろなものがあるが、
大罪は、重大なことがらで、人から強制されないで自由に、しかも罪であることを意識していて犯すものである。小罪はこの三つの条件を満たさないものである。
大罪をゆるしてもらうためにゆるしの秘跡を受ける、小罪はゆるしの秘跡でも、聖体の秘跡でも、心の中で反省したときにもゆるされる。

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8、 祈り、神様とのつきあい



 信徒がいつも神様の恵みのうちに生きるために神様との交わりである祈りが必要である。教会共同体のいちばん大切な祈りは聖体の祭儀(ミサ)であるが、個人で、家庭の中であるいは、集いの時の祈りも忘れてはいけない。

祈りは神との対話、あるいは魂の呼吸、心を神に向けることだとよく言われる。祈りは、「願いごと」に尽きるものではなく、言葉の問題でもなく、根本的には人間が心から神の前に自分自身を注ぎ出す行為を指している。昔から祈りを四つに分類することがある。
賛美の祈り、感謝の祈り、願いの祈り、罪のゆるしを願う祈り。
人はいつも具体的な状況の中で、具体的な問題や思いを持って生きる。だから、「神の前に自分を注ぎ出す」行為である祈りは、その時どきの生活を担った自分を注ぎ出すことになり、その時どきの自分の思いを、喜びを、悩みを、願いを、自分のあやまちを、決意を注ぎ出すことになる。
 神から受けている愛と恵みを思う時は感謝の心を注ぎ出し、神がキリストを通して行なってくださったことを思いながら、賛美・感謝・信頼の心を注ぎ出す。
心配や悩みに満ちている時、喜びに溢れて祈ることなどを求められても、どうしてできるだろうか。その時は「助けてください。支えてください。取り去ってください。」との嘆願こそ本当の信頼の表われと言えよう。それは、どんな時にも、どのような己れの姿でも、しっかりと受け止めてくださる神だと信じているからである。
 言葉がなくなる時、私たちは、神の前で言葉のない己れを注ぎ出す。すなわち、神の前で黙して、沈黙の内に時間を過ごすのである。


教会の祈り

1) ミサ、主の聖餐
 一番大事な祈り、初期の教会から中心とされたのはミサである。(使徒行録2,42〜48)
私たちを救うために自分の命を捧げ、永遠の命に入った主イエス・キリストはいつまでも私たちとともにおられる。ミサはイエスが死に、復活し、いつまでも一緒に生きておられることを記念する儀式である。

2) 詩篇の祈り 

教会の祈りとも言われて、朝晩に詩編を唱えながら祈りをする。詩編は旧約聖書の中に、ダビデ王やサロモン王の時からイスラエルで作られた詩集で、150の詩がある。時には神に向けられる祈り、時には神についての黙想である。歎いたり、願ったり、歓呼したり、感謝したり、そこに私たちの安心と私たちの不安とが記されている。詩編の言葉をよくかみしめてみると、ほとんどすべての言葉と象徴が近代の人間にも新鮮に感じられ、一番よく読まれる詩集でもある。
 詩編の祈りは教会全体(特に聖職者)が毎日唱えている祈りで、全世界のキリスト者が毎日心を一つにして神の前にささげる祈りである。


日常生活の中で個人的に祈る

1) 一人で祈る。朝晩の祈り、ロザリオ、黙想。
2) 家庭で祈る。朝晩の祈り、食前食後の祈り、聖書を読む。

聖書で祈る。 聖書の一ヶ所を読んで、その言葉をゆっくり味わいながら黙想し、自分の日常生活を神の言葉によって照らしながら反省する。そして読んだ言葉をもととして自由な言葉で神に祈る。

祈祷書で祈る。 本を使って、毎日の生活の中で、その時に合った祈りを唱える。古い祈祷書を使う人もいるが、カトリック中央協議会から出された「日々の祈り」やカルメロ会の「祈りの友」のような、現代の日本語でわかりやすい表現の祈りの本も色々出版されている。

ロザリオの祈り。 イエスの生涯を黙想しながら、マリア様を讃え、その取り次ぎを願う。ロザリオのくさりの粒で数え、「主の祈り、天使祝詞十回、栄光」を五回繰り返す祈りである。この祈りは中世時代に始まり、1520年に教皇レオ十世から認められて以降、教会の中で大事にされてきた祈りである。

自由な祈り。 自分の言葉で心を神様にうちあける。日常生活のその時その時の状態に基づいて賛美の祈り、感謝の祈り、罪のゆるしを願う祈り、具体的な願いを表わす祈りを述べる。他の人のためにも祈り、親しい人、苦しむ人、困難にあっている人、世界のすべての人やいろいろな状態を一つ一つ思い出しながら神の助けを願って祈る。

沈黙の祈り。 言葉が尽きた時に精神を集中させ、なにも言わないで、なにも考えないで、ただ自分のすべてを神の中に注ぎ、静かに時間を過ごすのである。
このような祈りには体の姿勢もかなり影響を与える。正座または座禅のような座り方をしたり、あるいは椅子に座って背骨をまっすぐにして、安定を保ちながら力を抜く。目を半分閉じて、静かに呼吸する。なにも考えずにそのまま20〜30分過ごす。雑念が起こったら心配せずに呼吸に集中して、入ってくる空気、出ていく空気を心で見つめる。このようにすれば、段々心が落ちつき、いつの間にか深い安心と喜びを味わうことがある。


 祈りは難しいものではないが、日常生活のいろいろな心配や忙しさに流されて祈りを忘れがちになりやすい。主イエスが勧めたようにいつも目覚めて祈ること(ルカ21、36)には勇気と根気が必要である。

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9、 マリア様と聖人



神の母、聖マリア


 カトリック教会は初代からナザレのイエスを産んだ乙女マリアを「神の母」とよび、特別の崇敬を表し、今日に至るまで、マリアを特別に賛美し続けている。
キリスト教の信仰の中心は三位一体、父と子と聖霊の神である。しかしマリアは他のすべての聖人より、教会の中で特別な位置を占めている。


聖書とマリア

 教会は旧約聖書の中にも、マリアの姿を見いだす。
創世記3、15。蛇の子孫の頭を砕く女の子孫。第2バチカン公会議はこのイメージをマリア、生ける人々の母として解釈した。
イザヤ7、14「おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」これはマリア、救い主の母として理解されている。(マタイ1、23をも参照。)
預言者の書に出る「シオンの娘」もマリアのイメージとされている。

 新約聖書には特に次の箇所でマリアの働きが見られる。
マタイ1ー2章、ルカ1ー2章(イエスの誕生と関連の話)
マルコ3、31-35(イエスの母、兄弟)。ヨハネ2、1-11(カナでの婚礼)
ヨハネ19、25-27(十字架のそばのマリア)
使徒言行録1、14(マリアはエルサレムで弟子と共にいる)
ガラテヤ4、4(御子は女から)。黙示録12、1-6(女と龍)


マリアに対する教会の教え

 マリアに対して、絶対真実として教会が宣言した教え(ドグマ)は4つある。

1。マリアは神の母(テオトコス)です、(エフェソの公会議、431年)
マリアは本当の神の子を産んだ。マリアの中でみ言葉は聖霊の力によって人の体を受けた。

2。マリアは乙女であり、母である。(ラテラン公会議、649年)
神の子を産んだマリアは完全に乙女だった。出産の前、出産の時、出産の後。
3。マリアは無原罪として生まれた。(教皇ピオ9世、1854年)
マリアは救い主の母となるべきものとして神の御寵によって、受胎の時から原罪に犯されなかった。この意味でマリアは人類の救いの初穂である。

4。マリアの被昇天(教皇ピオ12世、1950年)
人生を終えたときマリアは身体と霊魂を天に運ばれた。マリアは死後の腐敗を免れて、天の栄光に預かっている。


その他に、ドグマ以外にも教会が教えることがある。

1。マリアは救世主の協力者。
イエス・キリストに命を与えたことが、世界の救いを可能にした。生きていた時も、天においても人類の救いに協力する方である。

2。マリアは人類の母。
マリアはイエスと共に、すべての人に新しい命を与えるので、すべての人の母である。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ 19:26)

3。マリアは神の前で私たちの仲介者である。 私たちのために取りなしてくださる。

4。マリアは天地の王妃である。宇宙の王であるキリストの母として、自分も妃である。

5。マリアと教会。 教会の一員でありながら、マリアは教会の創立者、教会の希望、教会の母である。救いの完成をすでに受けたマリアを仰いで、教会は自分の未来の姿を見ることができる。


マリアへの信心

 教会は聖母に対する崇敬を典礼の中に現している。主キリストの救いの出来事は一年を通して記念されるが、その中でマリアも記念されている。聖マリアの祝日はほとんど毎月祝われている。
神の母聖マリア   1月 1日
ルルドの聖母    2月11日
天使のお告げ    3月25日
聖母の訪問     5月31日
聖母のみ心  キリストの聖体の次の土曜日
聖母の被昇天    8月15日
天の元后聖マリア  8月22日
ロザリオの聖母  10月 7日
聖マリアの奉献  11月21日
無原罪の聖母   12月 8日

 さらに毎土曜日も伝統的に聖母に捧げられていて、また5月は聖母の月、10月はロザリオの月とされている。
典礼ばかりでなく、いろいろな信心業によっても聖母をたたえる。なかでもロザリオの祈り、お告げの祈り、聖母の連願などは個人でも家庭でも唱えられる。ロザリオでは、「めでたし」の祈りを母マリアと御子イエスの姿を思い浮かべながら、繰り返し心にしみこむように唱える。聖母マリアをたたえて深く愛し、願いの祈りにとどまらず、その姿を仰ぐことによって生活の手本が得られる。


聖母崇敬の望ましいあり方
(1987年、日本カトリック司教団「聖母マリアに対する崇敬」より)

 主イエス・キリストこそ私たちの唯一の仲介者である。マリア崇敬は私たちをいっそうキリストに近づけ、さらに父と子と聖霊の神に近づけるものであることを、はっきり認識すること。
 聖書、特に福音書から、キリストの母として果たされたマリアの役割を学び、それを黙想しながら、幼子の心で聖母との親しさを深めること。
 教会の伝統的な聖母信心、典礼や祈り、行事は聖書の教えから生まれており、それと結ばれている。私たちの信心も教会の信心を規準にして行うこと。
 聖母に対する感情豊かな愛の表現、大衆の心にふれる信心を軽視してはならないと同時に、一人よがりの信心、自己満足を求める信心、教会の主流から離れる信心は避け、また特に、聖母信心をいわゆる“ふしぎな出来事”と結びつけようとする傾きには警戒しなければならない。
 子どもたちや若者の胸に聖母の姿がきざみこまれ、また家庭のなかで、マリアが夫婦・親子のだんらんのなかにおられる、そのような姿こそが教会の願いなのである。


聖人

聖人とは完全な救いに入られた方で、天国で三位一体とマリアと共におられる方であり、天国で生きている信者や教会のために取りなしてくださる。彼らの信仰と生き方は全ての信者に模範を示している。聖人の中にマリアの夫聖ヨゼフ、イエスの使徒たち、信仰をあかしするためにいのちを捧げた殉教者、正しい信仰を異端から守り一生懸命に教えた教会博士、神の民である信者を導いた牧者(司教や司祭)、神と共に生きることや兄弟姉妹に仕えることを立派に果たした修道士修道女、そして愛を尽くし、すばらしい生活の模範を残して他の人にいい影響を与えた一般の信者もたくさんいる。
聖人のために、年に一回祝日や記念日が割り当てられているが、11月1日に教会は「諸聖人の祝日」を定めている。この日はすべての聖人、だれもが知らなくても天国で神の栄光にあずかっているすべての人の祝い日である。
11月2日は「死者の日」といって、亡くなった方のために特別に祈りをする日であるが、日本では社会の習慣にしたがって、お盆の時期にも死者のために祈り、死者のミサをささげることがしばしばある。

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10、 教会共同体のあり方、信仰のあかし



私たちは教会

 キリストの体である教会はすべての信者、わたしたち一人一人から作られている。
教会が生き生きとした共同体になるために、みんなの積極的な参加が必要である。
いつも新しい、開かれた共同体となるためには、すべてのメンバーの姿勢、考え方の転換が必要である。それぞれ固有の役割を果たしながら連帯し、全員が共同責任を持つことが不可欠な条件である。
だれもが、第三者的立場になってはならない。全員が、また一人ひとりが、必ずなにかの役割を持っており、また、他の信者の役割を必要と認めること。他の信者と親しみながら家族のような雰囲気を作る。できることがあれば教会の運営に協力する。それぞれの集まり(会)に参加して、活動と信仰のあかしに努めることなどが必要である。
経済的にもそれぞれの収入に応じて教会を支える。(維持費、献金)

キリストの共同体を育てる 

 教会共同体を育てるには、もちろん信徒の互いの理解と交流が必要であるが、教会はただ社会の中の一つの組織であるだけではなく、聖霊の力で生きているキリストの体である。
これを育てるエネルギーは祈り、み言葉、いのちのパン(御聖体)である。一人でも、みんなと一緒の時にも心を込めて祈り、聖書を読みかつ、理解するために勉強し、み言葉に自分の生き方を合わせる。ミサにあずかって、ご聖体をいただき、キリストとの一致を深める。これは共同体を育てる力である。

福音宣教(福音化)

 イエスの教えを伝えてすべての人を救いに導くのは教会の義務である。
信者一人一人が救われればいいというものではなく、イエス・キリストと共に世界を救うために教会が生まれた。イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16、15)
 福音宣教のために教会はいろいろな方法をとっている。講演会、勉強会、本、雑誌、テレビ、ラジオなど。信者の一人一人も可能な限り、家族や知り合いの間に神の言葉を伝えることが望ましい。これは無理なく、人の自由を尊重しながら行なうべきことである。
「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」(マタイ5、13-14)
このイエスの言葉に信仰のあかしのあり方が見られる。自分の中に常に聖霊が働いていることを自覚し、まず自分を清めてキリストが望む姿になる。毎日回心しながらキリストの喜びの教え(福音)に従う努力をする。そして模範的な生活を営なみながら、周りの事情に応じて言葉や行ないをもって人々を神へ導くように努める。自分ががんばっていれば、人々によい味と光が与えられる。無理な宣伝をしなくても、信仰、喜び、希望、愛をあかしすれば人々には神の働きを見出すことができる。

信徒・聖職者・司祭・司教

 神の民であるカトリック教会は世界的に一つの組織になっている。
世界全体の教会の最高責任者はローマ教皇ヨハネ・パウロU世であり、各国は教区に分かれて、教区長である司教がいる。そして教区の中に小教区と言われるいろいろな教会があって、その責任者は司祭(神父)である。しかし教会共同体そのものは信徒から作られ、信徒も積極的に教会の運営に携わる。
このほかに教区や教会ができない仕事をするためにいろいろな修道会、宣教会が創立されて、祈りと修行、宣教活動、福祉活動、教育活動などに教区と協力しながら携わっている。
教会における聖職者や司祭は一つの地位のように考えるよりも、共同体の中で奉仕する役割と考えるのが正しい。すべての信者は神から福音をあかしするために呼ばれている。ある人は教会の中で一生涯、奉仕と指導をするために呼ばれている。ある人は家庭をもって社会の中に愛と正しい生き方をあかしするために呼ばれている。神はいつもそれぞれに自分にあった使命を与える。しかし司祭の数が減っている現在、司祭や聖職者の召し出しのために祈ること、あるいは自分が呼ばれていると思ったら、使徒たちがイエスに従ったように、すべてを捨てて勇気をもって従うことは神様の期待に応えることである。

開かれた教会作り

 次の文書は第一回福音宣教推進全国会議、NICE(京都1987年11月)、の基本的な考えである。

1 日本の社会とともに歩む教会

人々と苦しみを分かち合う。住んでいる地域に何が人々の苦しみであるかを調査し、はっきり把握したら具体的にできることから始める。人の悩みや苦しみを聞いてあげたり、ボランティア活動などに参加したりすること。
社会の良心となる。社会問題、国際関係の問題について考え、キリスト教徒として何を成すべきかを知ること。
新しい社会を作る。成すべきことがわかったら、勇気と指針をもって、社会の不正に立ち向かうこと。

2 生活を通して育てる信仰

職場で信仰に生きる。ミサの典礼や祈りに強められた信者は、職場でも周りの人への関心とかかわりを深めながら、信仰の喜びを表明できるはずである。
家庭で信仰に生きる。愛の実践と生活の態度による宣教は家庭の中から始まる。自らを刷新しながら子供や信者ではない相手に信仰の味を伝えていく。
青少年が信仰に生きる。青少年をむしばむ社会問題(管理教育、受験戦争、いじめ、登校拒否、労働問題、性の問題、暴力、覚醒剤など)に取り組んで、青少年に合った雰囲気を築いていく。

3 福音宣教をする小教区

地域に開かれる。信者でない一般の方を温かく迎えるために配慮する。教会の行事を「地域の人々とともに」という観点から見直し、また個人としても、教会としても地域との交流を深める。
信徒と司祭で共同体を作る。教会共同体を構成する信徒、修道者、司祭、司教は、それぞれ固有の役割を果たしながら、互いに連帯し、全員が共同責任を持つ姿勢に変えていく。
小教区の壁を超える。神の国の発展のために教区や小教区の壁を超えて、人材の活用や交流、財政的協力などを計る。

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