きかよん 1994.12  No. 7

ヨナ4・6
すると主なる神は、彼の苦痛を救うために、とうごまの木(きかよん)に命じて芽を出させた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、とうごまの木を大いに喜んだ。

 


山に登る

                                 フィリップ

 リュックのひもが肩にくいこむ。頂上を目指して一歩、一歩。足を置くところを選びながら一歩、そしてまた一歩。ジャリ道にかわって角が丸みをおびたかなり大きな乾いた石の道になった。少し上の突き出した石を見つけ、靴をのせ、体を運ぶ。かなりきつい登りだ。顔を上げるとほかの石が私の目に飛び込みせまってくるようだ。足元に小さな安定したところを選び上を目指す。太陽がじりじりと照りつけ汗が流れる。

二、三時間の登りの後でも私のエネルギーと力はまだ余裕がある。きつい登りさえ頂上を目指してなんということもない。体力と耐久力と知恵にも自信がある。流れる汗さえ心地よい。そして登りながら考えた。日々の生活で彼と生きるのは、彼女と生きるのは、また子供たちと生きるのは、そして職場の仲間と仕事をするのは、山道をいくようなものだろうか?彼らはどこへ私を連れて行くか、今日、どういう思いがけないことが私を待っているかわからない。くる日もくる日も彼らと一緒。一人になって他人なしでやってみたい。

 そうこう考えているうちに冷たい木立の中で仲間の姿も見えなくなった。登りの苦しさからか足どりも鈍くなって気分も重くなった。足の下に深い淵が、ぽっかり、口を開ける。深い井戸の中にいる私。四方から私を取り囲む壁。黒い煙突の中で戦っている姿が浮かぶ。その壁は他者という壁。彼らに触らないようにするほうがいいか?しかし、彼らはいつもそこにいて、彼らのせいで私は沈んでいる。心の暗闇はさらに暗くなり、野生動物に囲まれたように私はどうにも動きがとれなく立ちすくむ。暗闇の中に沈んでいたい。そこにあるのは孤独。暗闇からただ暗闇を見る。

しかし、どこからか光がもれてくる。どこから来るのか?私を取り巻く人間のうち誰からか。その光の源はどこにあるのか?主人、妻、子供たち、親戚。楽しいが時としてつまらない。優しいけど攻撃的な存在。他者はそれぞれ個性的に燃える炎。私は被らの真ん中にいる。その絆を保てるほど強いだろうか?彼らを上から見て見捨てようか?または私の都合の良いように付き合おうか。想像力と嫉妬はその手術のお医者さん。その手術で個性を練り上げ、人の顔に自分の思うようなお面をかぶせる。それは虚構。にがい現実を見たくない。だんだん孤立し、光りは弱くなっていき、消えそうだ。罠にかかった鳥のように、首にからんだ縄が動くごとに締めつけられる。その息苦しさ。解放されたいと別の虚構を試みる。恐怖も大きくなってくる。と同時に自由への欲求も増すのだ。

 最後のきつい登りになった。言葉も少なくただ足を運ぶ。私の中にまだ力が残っているだろうか?休憩の時間も長くなり回数も増えた。少し歩いて、すぐ休みたくなる。つまずくことも多くなった。空腹と乾きも手伝い呼吸も苦しく、頂上に着くか、不安と焦り。

 頭を下げ、足だけを見つめて歩く私。足をのせた小さい石だけを見つめる。次の足をのやるところを探す。ほかには関心が持てなくなった。私の体を支えてくれる右が頼りだ。 疲労は慈しみに出会うところ。歩き続け、登る。

 私は山道の小さな石に支えられ頂上に向かう。いつの間にか、この苦しい登りに私の心臓も足もどうにか持ちこたえている。私を支えてここまで登らせた石も余裕をもって探 せる。今まで気づかなかったが、私を本当に支えている山道の石。自然の仲間よ。今日、主人、妻、子供たち、親戚、隣の人、敵、皆、私の歩みをのせる山道の石。角ばった確かな存在。その石に足をのせて歩む。一歩、一歩。そして、また、一歩。彼らによって作られる足場にうまく足をのせることができ私は登れる。一緒に登っているここにこそ、頂上がある。

 時として重い、またある時は軽やかにある時はつらい。しかし、楽しい存在に私はまかせて私は満たされていく。思いわずらいながらも与えること、受け入れること。今、ここに生きている新しい喜び。


        『ロシアの家族から日本の友人達へ…』

 

  モスクワの障害を持つ子供達や貧しい家庭の子供達を支える会として、『ロシア里親の会』が発足してから3年が過ぎようとしていますが、カリタス・モスクワからはケース・ワーカーが子供達やその家族を一軒一軒訪ねて現況を記した書類と、次の様な家族からの手紙や写真が会員のもとへ送られて来ております。

 『○○○さん、こんにちわ!私達家族は、国の政治的、経済的な問題に加えて、個人的問題の為にも大変困難な時期にある最中に、あなたからのご援助を受け取りました。夫と私は、5人の子供達を育てていましたが、1991年に彼は事故で亡くなりました。それから私はこの子供達を自分独りで育てなくてはならなくなりました。私は今仕事を持っていません。あちこちで多くの解雇がなされている時期だからです。…現在わたしは、子供達を育てながら仕事を探しています。……お知り合いになる為に、写真を数枚同封致しました。では、さようなら。助けて下さって、本当にありがとうございました。』

 『○○○さん、こんにちわ!あなたとお知り合いになれてとても嬉しく思います。最初に、あなたが私達家族にお送り下さったお金に感謝致します。私は、外国の方々が私達ロシア人に経済的援助を下さることについて恥ずかしくも感じております。私達の国にできた新しいシステムのおかげで、多くの人々が貧困生活を強いられております。けれども私は、ロシアがこの困難から抜け出ること、そして人々が今より幸せな生活ができるようになることを信じています。私の名前は、○○○と言い45才です。私はエンジニアですが、障害を持った子供の為にパート・タイマーとして働いています。この子は○○○といい、10才で小児脳性マヒにかかりました。これはひどい病気です。…独りで歩くことができず、良く話すこともできません。大方の時間をテレビの前で、ソファに座って過ごしています。…彼は自分の父親に会ったことがありません。夫は、自分の病気の子供を見て、私達から去っていきました。けれども、○○○は私の子供です。私は決して彼から去ることはありません。こんな悲しい手紙で御免なさい。これが私の家族に関する大体のところです。最後にもう一度、ありがとうございました。心をこめて‥・。』

 『親愛なる日本のお友達、こんにちわ!お金をお送り頂きましてありがとうございました。ロシアの見知らぬ者に対して経済的な援助をして下さるような外国の新しいお友達に出会えるなんて考えもしなかったことでした。日本に、私の孤児達を世話して下さる方々がおられるとは…。ほんとうに感謝致します。私の名前は○○○と言い、78才です。私は3人の孫を世話しています。子供達の父親、私の息子は1990年に病死しました。子供達の母親は、大酒欧みの為、親権を取り上げられました。…私の孫○○○は9才ですが、病気の為大変遅く入学しました。…私は全力を挙げて子供達が独立できるよう努力しようと思っています。では、さようなら。お返事をお待ちしております。…』

 『親愛なる日本のお友達、○○○さん、こんにちわ!私達は貴方がたのお手紙を受けとりましたが、お返事するのが遅れてしまいました。家族全員が、病気だったからです。親愛なる友よ、私達はお互いに愛し合いながら、調和のうちに暮らしています。勿論多くの困難はありますが、私達はこれらを乗り越え、決して絶望しないように努めています。娘は明るく快活です。彼女の勉強は順調に進んでいます。放課後、家で宿題をすませるとちょっと休憩します。そして彼女の友達が尋ねて来て、彼等は一緒に散歩に出掛けるのです。…親愛なる○○○さん、あなたは○○○が持っている計画や夢について私に尋ねられました。彼女は電子工学に大変興味を持っています。彼女は計算機を使いこなすようになりました。…私達は彼女に尋ねました。「…将来何になりたいの?医者かなエンジニアかな、それとも生物学者かな?」しかし彼女は、はっきり答えませんでした。今、将来の職業を決めることは難しいことです。親愛なる友よ、私達は貴方がたが健康であること、そしてまた、すべての困難を乗り越えて行かれることを願っています。』(これは、共に障害を持つ生物学者とお医者さん−障害の為働けなくなりました−のご夫婦が、やはり障害を持って親御さんに捨てられた子供さん(現在11才)を養女にしているご家族です。)

 

  物質的な援助という小さなきっかけを通して、かえってこちらが、大変豊かな、目に見えない贈物をもらい、助けられ励まされる気がします。また、自分と異なる文化、環境の人々を本当に良く理解する為には、自分の価値観や常識、未知のものに対する抵抗や恐れから自由になって、相手の方のことばに耳を澄ます必要があるということも学びつつあります。


 

  午前4時、電話のベルが鳴りました。「すぐ家に帰って来て…!」と、家族からの電話でした。それは、母が、夕のミサに与かりキリストの体をいただいたばかりの母が、教会を出てすぐに車にはねられ、重傷を負い、今死の際にある…という知らせでした。

  母の為にお祈り下さつた皆さん、またこの辛い時を乗り越える為に様々な形で私を助けて下さつた皆さんに心から感謝致します。本当にありがとうこさいました。お礼の言葉に代えて、母の葬式の日に参列者の方々にお話しましたことを、もう一度ここで繰り返させて頂きますことを、お許し下さい。

“Mamma Santina”に祈りと感謝

                                ジユリアーノ

 

 兄、姉、妹たちに代わって、皆さんおひとり、おひとりに言わせてください、「ありがとう!」と。でも、それよりも母の名によって、「ありがとう」と言いたいです。彼女はきっと皆さんにそう言いたいと願ったにちがいありません。でも彼女はだれにも迷惑をかけることが嫌いでしたから−小さい子供にさえ、孫にさえ−皆さんに今日来ていただいて恐縮しているかもしれません。そんなことができない人でしたから。

 こんなにたくさんの方が母のために「すべての悲しみが迸しる神」に祈りにきてくださったことは、彼女にとって最高の贈り物になったと思います。神を信じられないのに、信じたくてもかなわないのに、今日ここに来てくださった方たちに、特に「ありがとう!」と言いたいです。

 

  皆さんに心から感謝します。

 

 人生に於いて、特に大切な時がふたつあります:誕生の時と死の時。死の時は誕生の時よりも偉大です、何故ならその時やっと、私たちをこの世に、この人生に、「送られた」方から私たちを阻む壁が崩壊するのです。そして愛の狂気のさたで天を、地を、私たちひとりひとりをつくられた方のもとに、帰ることができるのです。

 死を通して、放蕩息子−私たち−は父の家に帰ることができます。と言うよりは、父が私たちを迎えに飛んできて、私たちを抱きしめ、洗い清め、美しい服を看せ、他の子らといっしょに彼の家で歌ったり踊ったりする、終わりのない祝宴に導き入れてくれるのです。

 今私たちはあえて信じます。:御父のあの大きな心と気の遠くなるような優しさによって、御子イエスのあの、私たちひとりひとりの為に十字架の上で殺されそして復活してくださった、高貴な愛のゆえに、そして神の聖霊に息づく、すがすがしい母性愛のような愛によって、お母さん、今、あなたも、偉大な王、主のうちの主である御方の祝宴の席に座り、御方の限りないやさしさ、すばらしさ、美しさ、そして慈しみを生きているのですね。

 “天から声が響きわたるのを聞いた:「主のうちに死ぬ者は幸い」”

お母さん、あなたは今「幸いな者」、福者です。主のうちに亡くなったんですもの。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は死ぬことはない、死んでも私が彼を復活させる」と言われた方を、あなたはあなたの心に受けたばかりでした。

 

 今私たちは悲嘆にくれていますが、あなたは喜びのうちにいます。

 ひとりの子が生まれる時、その子は泣き、でも彼を迎え入れる者たちは新しい人の訪れに喜びます。赤ちゃんは温かい安全な場所を去り未知の所に出て来たので、泣きます。どこに出てきたのかもわからないし、身の危険を感じるし、騒音の多い平和的でない世界で、自分の力だけで息をするという至難の業を習わなければなりません。

 ひとりの人が亡くなる時は反対のことがおこります:まわりの人たちは泣き、死にゆく人は神の喜びのうちに入ります。そしてそれがひとりの母、その母がこのように無惨に命をなくした場合、その子らはとまどいます。だって彼らにとって自分を知るための鏡であったあの顔を、道を誤らないためのしっかりした導き、誤った時には正しい道にたどるための確かな励ましであったあの声を、ころばないためのあの手、あの歳にもかかわらず疲れしらずに一所懸命、自分たちに食物を与え、服を着せ、きれいにしてくれたあの手を、突然失い、途方に暮れてしまうのです。

 

 「けれど、主よ、あなたの友にとって命は失われるのではなく、次元を超えてより美しく生き続けるのです」(お母さん、あなたも)

 もし一粒の麦の種が地に落ちて死ななければ、けして穂にはならない。穂になったら、その中に種は何十倍にもなって宿ります。

 

 神の御顔と御心に特に近いイメージ(姿、面影)でもあるお母さんは、「父の家」に帰ってしまっても母であり続けます。だから私たちは、あなたが今も私たちと共に居られることを確信するのです。ええ、私たちはあなたの無惨にも傷つけられた体を大地にゆだねます。けれどだからといって、あなたの愛の眼差しにみちる存在が以前のように、否、以前にまして、私たちを追い、導き、支えてくれなくなるのではありません。あなたが去る前は、あなたは私たちの顔をちょっと見ただけで、心を見ぬいていました。今、あなたは主が私たちを見通されるように私たちの内のすべてを知り、私たちはあなたに隠すことはひとつもありません。

 

 最後に、私たちみんなの名によって、あなたにお願いします:

Mamma、永遠の神の御前に彫刻のようにしっかり立ち、あなたの歓喜である主を限りなく、止まりなく讃え、私たちのために祈ってください。もはや死のない、苦しみのないところ、主が私たちのすべての涙を拭ってくださる国に、もう一度みんな一緒に集められるその日まで。アーメン!」


“クリスチャンに話す、これ 宣教じゃない”
(レミ語録より)

 

聖ぺテロパウロ労働宣教会(MOPP)が正式に修道会として認められてから、来年で30年になります。これを機会に各兄弟を通してMOPPをもっと知ろうと思います。今回はレミさんを訪ねインタビューでいろいろ伺いました。

 

★モップに入って何年になりますか?

 大学を卒業して(6月)9月にスイスのフリフールの信仰の学校(モップの創立者ジャック・レーヴが創った)に3年いて、その後のフランスのトルーズに10年いて、日本には11年前の秋、11時半に着きました。

 フランスのトアで生まれ、13才まで過ごしました。その後小神小学校(普通の小学校)に入り、18才まで過ごし大学に進みました。大学でギリシャ文学、ラテン文学、フランス文学を専攻しました。学生運動が盛んな時で、私も参加しました。

★修道士になった動機やきっかけは?

 私が行っていたクレテーユの教会の神父さんが、モップの勉強をしていて、すすめられたわけでもないが、訪ねた時決めた。22才の学生の時。モップの共同体の生活、仕事のことも低い立場の人といる、そのやり方が気にいった。

 大学卒業後のフリブールの‘信仰の学校’へ行きました。モップの兄弟達はここで勉強しました。人によって違うけど私は1年間仕事して、2年間勉強した。この学校には3つの柱がある。1.神のみ言葉を聴く 2.神のみ言葉を典礼の中でいかす 3.日常の生活の中で、共同体として生活する中でいかす。普通の学校は勉強だけする。この学校は典礼、共同生活が勉強の中に入つている。

勉強のやり方も違う。普通の神学校で聖書の授業の時、今年は詩編とヨハネの15章とかやり、他の所はやらない。ここは詳しくやらないけど全体を少しやる。神様はどういう風にイスラ工ルのためにあらわしたか、とか。

1年目は仕事をしたそうですが、どんな生活だったのですか?

 ニコー、アルべルトと3人で共同生活をして、プラスチックの工場で流れ作業をした。1日の生活は、朝の祈り、仕事、食事の用意、食事、夕の祈りと世界中のモップの生活と大体同じ。その時モップの人が12人位いたけど、皆23人で共同生活をして200300m離れた所に住んでいた。

2年目から勉強に入った時、ジュリアーノさんとフィリップさんが私のために働いていた。

★学校が終わってからどうしましたか?

フランスのトルーズヘ行きました。4人の共同生活。最初9ヶ月フィリップさんと電気の勉強をして、同じクラスだった。その後電気屋さんで週に40時間働いたけど首になつた。いろいろの職についたが、ある会社では組合を作ろうとして15人の会社で8人が首になった。

★労働宣教会として労働として電気屋、他で働き、宣教として何をしていましたか?

何もしていない。日本で今も何もしていない。

★今典礼の歌の練習をしていると思いますが。

これ私宣教のところじゃない。典礼の事を教える、教会のこと、全体的に宣教と言えるかも。でもクリスチやンに話す、これ宣教じやない。

★教会にいてクリスチャンでも認識が足りないところがあるから。

私も認識が足りない。(インタビューをしていた2人は思わず顔を見合わせる)

★レミさんにとって宣教とは何ですか?

 〈聖書を取り出してきて〉ザカリア823を読んで下さい。“万軍の主はこう言われる。その日あらゆる言葉の国々の中から、10人の男が1人のユダの人の裾をつかんで言う。「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ」このユダヤ人は口を開けなかつた。ユダヤ人何も言わない。

たとえば今音楽としてグレゴリ聖歌の人気があるスペインの修道院、彼等は別に宣伝しなかったと思います。それを聴いて若者は教会に行かなくても、急に何か感じた。宣教はある人、皆をつかまえて、「私の言葉を聞いて下さい」と言うのではなくて、全体的の生活をみて何か感じる。この10人はどうしてユダヤ人の裾をつかんだ?(質問する人が逆になったみたい)

★神さまが共におられると感じたから。

ええそうでしよう。このユダヤ人何も言わなかつた。

★そうしたら宣教ってむずかしいですね・‥

 10年間トルーズにいて日本に来たわけですが、日本に来るのをどうして決めたのですか?その時日本にいた兄弟が「誰かを送ってほしい」と言った。私は「どこでもよい」と言った。

★では他の人が日本に来る可能性もあったのですか?

 可能性は少ない。年寄りの人は日本語を学ぶのが難かしい。若い人でも日本語は自分に出来ないと思っている人もいた。

★日本の最初の印象はどうでしたか?青果荘について、銭湯、お箸等について。

 兄弟達から聞いていたので問題はなかつた。銭湯についてもフランスにはないけど前に2回行ったアルジェリアにはあった。(学生時代とモップに入ってから行ったそうです)

★修道者の場合聖書を読まなければならないので、会話だけでなく字や漢字を覚えるのがたいへんだと思いますが。

 祈りながらこれが一番。聖書を読みながらこれが一番勉強になった。たとえば朝夕の祈りで詩編は毎日読むし、4週間おきに同じ箇所がでてくる。聖書は初めに大体意味がわかっているし、聖書の言葉をよく読めば複雑な事を考えないでこれが一番。他の本は最近少し読む。

★仕事は3年目から始めたのですか?

 はいルイさんの紹介でエビナ電気で6年間働いた。普通の労働者と一緒でモップとして良かった。その後安息年で1年フランスに帰った。

★今はどんな仕事ですか?

 3040人の会社で前は検査の仕事で暇だったが、今は現場の仕事を希望して移った。

★日本の会社で働いてどんなことを感じますか?

 日本の中にもいろいろな会社がある。前の会社は小さかったから、皆、□を開く人がいなかった。今の会社は後に大きな会社(親会社)があるし、組合もあるから社長や工場長に対しパワーがあると強く感じる。でも同じ会社の中でも2つの世界があると思う。ある人おしゃべりばかりしていて、ある人通信販売のカタログばかり見ていても、誰も何も言わない。

 もう一つの世界(現場)冬寒い、夏は40度位になる。コンベアーでボルトや他の物が流れてきてそれを箱にいれる仕事で休む暇がないし、重い。休むのはコンベアーから直接箱に入る物が流れて来た時だけ。工場長は「新しく作るプロジェクトチームに入って下さい」と言ったけど、断って現場を希望した。現場に来てから皆の態度が変わった。近くなった気がする。モップの兄弟としてふさわしい所にいると喜んでいる。

★土曜は休み残業はしないという条件で働いているそうですが、それについて他の人から何か言われませんか?

 これは私たちが選んた事ですが、連帯を切るという意味で悪い事ですが、神様のために別に時間をとるという意味で良い事と思います。皆は教会のために土、日を使っていると知っているので何も言わない。

 時々面白い質問がある「レミさん、祈りは何を祈るのですか?」この意味は「何を頼むのでしょうか」という意味でしょう。日本で祈りというと、手をはたき(拍手)頼んだり願いをするでしょう。「祈り」は神様に心をかたむける事です。祈りについて少しずつ話しました。また「神様は天地を創られた方です」と話すと「この世にみんなあるけど、それがどういうふうにできたか考えたことがない」と言っていた。皆土、日曜私が何をしているか詳しく知りたいようで、よく聞かれる。

 聖書の旅の事を話したりして誘うけど来ない。皆こわいみたい。新しい宗教がこわいから、私わが何ものか分らないし、カトリックと言っても信じない。何人か誘って「行きます」と言っても、「用事ができた」とか言って最後は来ない。前の会社は社長さんがルイさんの友達だったから、社長さんのすすめで来た。会社の命令かな?

★フランスと日本で働いてみてどんな違いがありますか?

 フランスでは普通の労働者になり社員となるが、日本では私達はアルバイトで完全に会社に雇われない。休日祝日は日本の方が多いと思うが、フランスでは火曜が祝日の時、月曜はお金はもらわないけど土曜から火曜まで休みになる。日曜が祝日になっても日本のようにはならない。これは悪い年になる。日本ではまとめて長く休めないが、フランスでは1ヶ月続けてとれる。全体的に見ると会社が命令すると、仕事や休みのことに対して、日本では皆従う。フランスでは会社に皆が連帯して反対する。

★では話頴を変えて、毎月第2土曜日にやっている“夕の祈り”について話して下さい。アンドレ・グーズ(ドミニコ会の神父、教会音楽の専門家)のものが多いと思いますが。

トルーズにいた時もそうだったが、モップ全体アンドレ・グーズだけでなく東方教会の勉強をしていたし、関心もあつた。イコンを使うのもそのため。歌の言葉は教父や聖書の言葉からとっているけど、ローマの典礼は人間にたとえると、皮と骨だけで肉があまりない。東方の典礼はすごく豊か。言葉として1つの祝いを読むとき、いろいろの言葉で祝いの神秘を言う。夕の祈りでも‘光の歌’これ伝統的な事、しかし教会の祈りに入っていない。ガリラヤの賛美歌入っていないから入れている。

何年も前にルイさんがこの祈りの本を作った(本棚から取り見せてくれる。)これは現代のものは中身が薄いから、いろいろな賛美歌、共同祈願、アルメニアの典礼、ローマの典礼、昔のフランス、スペインの典礼、マロニック、カルディアのものを入れて作った。ルイさんも本にして売ったけど、トルーズの兄弟達がもう少し使いやすいように直して、今フランスで売られている。

★レミさんはトルーズの時から、典礼にかかわっていたのですね。私も日本の教会の祈りの勉強に行きましたが、モップの祈りの中に日本の祈りに入っていないものが沢山ある  わけもわかりました。最後に初段をとった弓道について話して下さい。

 2年前に始めました。理由は健康のため、日本のスポーツとして興味があったため、知っている人を広げるため、仕事と家、もう一ヶ所あるといいと思つた。

★何人位いますか?

 名簿では40人位だけどふつう6人位で冬は1人の時もある。家庭的だという事で戸田の新聞にも出るそうです。先生は70才位でいつも自転車で来る。素晴らしい人で、ボランティアとしてやっていると思う。クリスチャンよりもボランティアとしてすばらしい。

★弓道の内容についてはどうですか?

 弓道は簡単に見えるが細かい所が沢山ある。手のやり方、つかみ方、ちゃんとやらないとうまくいかないから、細かい所が難しい。毎週火曜日仕事の後2時間、袴をはいてやっている。あまり動かないけど身体全部を使うから、冬でもあたたかくなる。

 射会の時特別の式があり、先生が‘かたぬき’をする。(実際に動作をやって見せてくれた)整然としていて、すごくきれいで典礼みたいね。弓をさわる前に歩き方、座り方、もったときから終わりまで、礼のし方が決まっていて、これは、ヨーロッパにないもの。

 弓道の‘道’を‘無にする’とか‘禅に関係している’と話してくれる人もいる。私は‘道’というのは、人間を育てるための‘道’だと思う。

  ―楽しいお話ありがとうございました。


報告とお知らせ

108日〜10日不二聖心(裾野)の“山の家”で35名の参加で聖書の旅が行なわれました。子供から大人まで共にみ言葉に耳を傾け、王の息吹きを受け、魂の深呼吸をしました。

1210日(土)子供達とのクリスマスパーティー

129日(日)、312日(日)

     1000am530pm 戸田市青果荘において「過ぎ越し祭」について学び黙想。

 イエスの最後の晩餐は過ぎ越し祭を祝う食事でした。それは奴隷の状態からの解放の記念と死からの救いの希望を思い起こす祝いです。

 ユダヤ人は、今も「過ぎ越しの祭」の伝統を律法に従って、それぞれの家庭で行っています。今回、上記の日程で、「過ぎ越し祭」について学び、黙想し、実際に食事をする計画をたてました。今から是非予定に入れて参加して下さい。

                  [当日、昼食持参]

 ○318日(土)チャリティー・コンサート

    六本木チャペルセンターにて600pm

・・・・・お楽しみに。多数ご来場下さい。

54日(木)夜〜7日(日)午前

      聖書の旅   不二聖心“山の家”にて


 

編集後記

○記録的な猛暑も過ぎ秋深し。いや冬到来です。この半年青果荘にもいろいろなことが起こりましたが、恵みのうちに兄弟達の祈りの声と、人々の集うざわめきがまだ聞こえています。青果荘で聞こえる声を少しでも届けることができれば幸いです。

○さらにジュリアーノさんのお母様が10着き19日に亡くなったという訃報が入りました。彼は10月下旬イタリアに帰りました。ミサの際に彼が語った言葉を同封させていただきました。是非、ごー読下さい。お母様とご家族のためにお祈りしたいと思います。

○レミさんのインタビューの後記をこの号の編集後記に加えさせていただきました。

    (田嶋 文)

 初め“うん”とか“はい’’とか“答えのない長い沈黙”とかで心配したインタビュアーも後半はジェスチャ−も交えた楽しい話になり安心しました。インタビュアー2人も落ち込んだり、喜んだり、詰め寄ったり、横になったり、歌まで歌って・・・少し疲れたね…。

“見よ兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。”(詩編133

     (吉田敬子)


発行者 MOPPの兄弟の友だち

発行所及び連絡先   聖ペトロ・パウロ労働宣教会(MOPP

3350013  埼玉県戸田市喜沢2222 青果荘

             TELFAX  0484459514 

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