きかよん
夏1995
/ No. 8
| ヨナ4・6 すると主なる神は、彼の苦痛を救うために、とうごまの木(きかよん)に命じて芽を出させた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、とうごまの木を大いに喜んだ。 |
フェラーリは田植え機ではない
ジュリアーノ
さてお馴染みの「おばかさん」ですが、こんな名前で呼ばれているからといって別に「不感症」に病んでいるわけではありません。だから、彼にもいろんなことが目につきます。最近彼のこころを大変痛めたのは、だれかが敵を殺すためではなく(それだって非難の的になってもいいことですが)何の罪もない人々、仕事に行く途中の人たちを殺害する目的で、毒ガスを作っていたことを知ったことでした!彼にとっては大変ショックな出来事でした。
第2次世界大戦終末−ナチズム独裁からの解放−50周年記念がヨーロッパで催されましたが、「おばかさん」がまたしても知ったのは、どんなどう猛な獣でもライオンはライオン同士では殺さない。しかし人間は殺人を犯します。残虐な行為がおこなわれていたということです。
最近出された日本のカトリック司教団の「平和への決意」という声明(?)を読んで、もうひとつのタブーが「おばかさん」の中で崩れ落ちました:「それじゃあ、日本の側にも、第2次世界大戦が起きた様々な悲惨な出来事、開戦以前の経緯に関しても、責任があるじゃあないか」と、彼は思わずにはいられませんでした。
(?)確かに日本軍は、朝鮮半島で、中国で、フィリピンで、その他さまざまな地域で人々の生活を踏みにじり、長い年月をかけてつくりあげ、伝えられてきたすばらしい伝統、文化を破壊してしまいました。人々の人間としての尊厳を無視し、その残虐な破壊行為によって、武器を持たない、女性や子どもを含めた、無数の民間人を殺害したのです」。
かわいそうに、「おばかさん」の頭は、こんなに沢山の死、殺戮をともなう出来事に対する思いで、はちきれそうになってしまいました。そして、こう思いました。「ひとりの人間、ひとつのグループ、ひとつの国家って、何がよいことで、何がいけないか−他の人にとって、また自分自身のためにも−決めてしまう権利を持っているんだろうか?」
例のごとく「おばかさん」は、人生の究極の問題にさしかかるといつもそうするんですが、1日お休みをとって、田舎にハイキングに出かけました。
そこでです、青々とした田んぼのふちに腰掛けて、農家の方が田植え機で田植えをしているのを眺めていたら、その超むずかしい問いかけに関しての答えが、彼のおつむに閃いたんです。
「この機械は、いつか泥にまみれて田植えをするのがいやになって、乗用車になり、アスファルトの道をスイスイ走るという決断を自分でくだせるだろうか。」
それから、実は彼はF1のファンなんですが、「フェラーリの持ち主が或る日、時速50kmで大都会の街を走るのに疲れてしまい、その最高のスポーツカーを田植え機に使用する決意をすることが出来るだろうか。」とも考えました。そりゃあ、やれば出来るっていうもんですが、でもそんな事をしたら人の笑いをかうだけだろうし、第一、なんの成果も得られないでしょう。よその田圃に突入して、畔道に鼻を突っ込み、身動きが出来なくなって、結局は惨めに錆付いた醜態を道ゆく人にさらすようになるのがおちです。
我らの「おばかさん」は、どっちかというと単純なので、すぐに思ってしまいました。答えはというと、どんな機械でも、自分のため、他人さまのためには、自分をこしらえてくださった方の意図に合った用途のためだけに使われて然るべきだ、と。
人間にしてみても、いくら人間業に嫌気がさしてしまったからといっても、人間であることを忘れ、人としての道を歩むのを止め、辺りじゅうのものに襲いかかって引き裂いてしまうような事をしていいものではありません。又、その反対に、天使になったつもりになって、翼もないくせに屋根から飛び降りたりしたら、けがするのは−けがですむとは思えませんが−自分です。そうこう考えると、「おばかさん」はどうしても人間をつくった方に、どんな目的で人を造ったのか、聞いてみたくて仕方なくなりました。というのも、今まで世間でよしとされているような倫理感−「おばかさん」はその「常識」の中で育ってきたんですが−だけでは、充分自分としては納得がいかなくなってきたんです。例えばこんな常識です:人さまと歩調をあわせて、同じように思考し、行動していればよい、ということ。あと、人さまに「迷惑」をかけない範囲でなら、自分は何をしてもよい、というモラル。
あの、フェラーリを田植え機として使おうとした狂った人の二の舞をしないで済むにはどのような道を歩むことが出来るか、どんな生き方をしなければならないか、ようするに、完璧に人たるものでありうる為にはどうすればよいか、知りたくなりました。
どこに人間の「建築家」(造られた方)を見つけに行けばいいのかわからないけれど、もし見つかったら彼に、彼の傑作(=人間)の「使用法説明書」をもらいたいものだ、とも思いました。
この願いを胸に、「おばかさん」は帰路につきました。もう少ししたら、この心の中では本能的に察している「答え」についてもっとゆとりをもって考える為に、又ちょっとした(より長い)休暇をとろうと決意を固めて。
今は何となく流されて生きているように感じる自分の生活が意義を帯び、何倍もしあわせになる(面白くなる)ような「答え」を求めて。
阪神大震災後、すばる福祉会のボランティアの参加者の“声”です。
ジュリアーノさんが出会った人達の一部です。
戸田1995年4月20日
今年もまた桜の季節がめぐって来て、私達はうの花々のこの世のものとも思われぬ美しさに心打たれました。桜の花を眺めながら、しばしの間、美しく調和のとれた喜びに満ちた世界を夢みました。満開の花の木の下に座して共に歌い、飲みながらこの夢を分かち合ったのです。
けれどもたとえ花の美しさに酔っても、西宮で出会った人々の顔を忘れることは決してできません。この桜の木の下で味わった“共にいる喜び”をあなたとも分から合いたくて、お手紙を書きたくなりました。
避難所にいる人々が少しずつ仮設住宅に入り、ボランティアの人達も自分の家に帰って各々の生活、勉学や仕事へ戻つています。私達はこうして離れ離れになりました。しかし私たちが一緒にした経験は忘れ難く、強い印象を残しています。
西宮で私達は、寒さの中でも、雨が降っても風が吹いても、日が照っても、個別訪問に出掛けたり、数百人の人々のための炊き出しをしたり、その“美味しい(?)”残り物を食べたり、コンクリートの上で寝たりしながら、例えばディスコにいる時よりもずっと大きな喜びを知りました!これは不思議なことでしたが、確かに私達はその喜びを経験したのです!!私達は心を本当に温める喜びは、様々な助けを必要としている人々と生活を共にすることの中にあると言えます。私達はみんな(自分は十分なことができなかった。十分役に立つことができなかった。)と感じています。
けれども、みんな短い問でしたが、被災者の人達と一緒にいたのです。私はボランティアの根本的な仕事はまさにこの[共にいる〕ということだと思います。大変な目に合っている人々の精神的な支えとなるのに、私は足りないと感じても、[共にいる]ことだと思います。そして、あなたの様な数百人もの若い人達のことを思う時、私は大きな喜びを感じるのです。みんな、お金とかではなく、自分の時間と自分自身を西宮の人達に差出していたからです。
あなたは今どうしていますか?お元気ですか?お便りを待っています。
友情をこめて
小菅 隆
崩れた建物、半壊の家屋、そしてひび割れた道路……。画面とは大違いの光景であった。 私は3月の2週間、兵庫県西宮市にあるすばる福祉会で救災活動に参加した。私が行った時はちょうど被災者への炊き出しが終り、福祉会本来の仕事がある個別ケアーに移ろうとしてている時期であった。そういった難かしい時の中で私が初めに感じとってしまったのは、被災しいる方々の露骨な欲と我、被災者同志での協力体制の欠如、また忙がしさ故なのかボランティア同志の協調性も少し欠けているような気がしたことだ。そしてそういった中で自分はどうすればいいのか、何をすべきなのだろうか。それともそう感じとってしまった自分が卑屈なのだろうか。そんな葛藤の毎日であった。それでも毎日かけ回りゆっくり考えている暇などなかった。入浴や給食サービス、お年寄りの話し相手、結局自分のやれる範囲でやるしかなかった。
多くの人達と接し、共に働き飯を食い、かけずり回る。そんな毎日を過ごしていて1つ気付いたことがある。それは被災者もボランティアも皆必死だということだ。そういった中で見つけたささいな仕事。それが奉仕活動なのである。ただ皆懸命になるあまり周りの事が見えなくなっているのである。かくなる自分もその−人だったのだ。
最近若い人達の無関心さが世間で言われているが、あの中であれだけの人達が一生懸命やっている姿を見ると、たとえそれが興味本意であれそんなことはないと感じる。むしろ一人一人が真剣に考え何か出来ないだろう何か力になれないだろうか、皆頑張っている。そういったことが解つたのは仕事が慣れてきた帰る直前のことであった。本当はもう少し被災者の方々ともボランティアの人達とも話す機会を持ちたかったし、もう少しやっておきたいこともあった。結局、自分は一体何ができたのか、何をしたのか、少しでも役に立ったのか、よくわからないまま引き上げることになった。あれでよかったのかなあと帰りの列車の中で考えていた。
後日、個別訪問で接した一人暮らしのお婆さんからの便りを聞いた。“いっしょに食べたぜんざい、おいしかったです。有難う”これでよかったのかな、涙をこらえながらそう思うことにした。
最後に被災された方々が一日でも早く元の暮らしに戻れるよう願っております。
まだまだやるじやん、この国の人達
安部一光
暗いニュースが続いている。巷には殺伐とした空気が流れているように感じられる。嫌な世の中になったものだ。そのせいで人々の間では動揺が広がり、気持ちは暗くなりがちだ。しかし、何かお忘れではないだろうか。この国には明るい兆しが見えてもいるのだということを。先の阪神・淡路大震災では、10代20代の若者を中心に延べ約120万人のボランティアがそれぞれの思いを胸に被災地で活動した。この国の100人に1人が動いた計算になる。「近頃の若者は‥・」と言われていた世代がである。都内のある区役所からボランティアに来ていた40代の男性は自分の今までの若者観を改めなくてはならないと思ったそうだ。
1日中働き回って疲れているはずなのに、夜になると様々なことについて議論が始まってしまうのだ。ボランティアのこと、被災者のこと…。私も共に活動して、ボランティア仲間の精力的に働く姿、真摯な態度には驚き、また安心もさせられた。「この国には、まだまだ素晴らしい人達が沢山いる。世の中捨てたもんじゃない。」と。
正直言って、私自身はこの世の中を結構醒めた目で見ていた。しかし、今回私はこの国、この世の中を改めて、見直した。そして私自身のことも見直した。ボランティアは初体験だったが、リーダーも務めさせて頂き、あれほどまでに自分が動けるとは思ってもみなかった。至らぬ点は多々あった。だがボランティア活動には、人間の潜在的な力を引き出す働きがあるらしい。
今回、私達の社会は多くのことを学び、私も素晴らしい経験をさせて頂いた。しかし、そうしたことの背後には多くの人々が家や家族を失い、今尚避難所生活を強いられているという厳然たる事実があることを忘れてはならない。御意見・御感想はパソコンネットで。
E−mail:st33009@srv.cc.hit-u.ac.jpまで。
たとえば、こんな
小林大純
たとえば、こんなことがありました。僕たちの作った炊出しを取りにきたおばあちゃんが、「ありがとう、ありがとう。」って言ってくれたんです。
たとえば、こんなことがありました。寝たきりのおじいちゃんが、僕の手をかりて歩く練習を始めたんです。
たとえば、こんなことがありました。「むすばる塾」という春休み教室で預かっていた子どもたちが、たくさん春を見つけてきたんです。
たとえば、こんなことがありました。避難所にいた耳の不自由なおばちゃんが、僕の姿を見ると顔をほころばせてくれたんです。
たとえば、こんなことがありました。学校に行かずにいつも避難所にいた知恵遅れの女の子が、僕にたくさん話をしてくれたんです。
たとえば、こんなことがありました。全壊の家に住んでいた全盲のお姉さんが、一度お話ししただけなのに、家の人と玄関で話していた僕の声を聞き分けて、「小林さんでしょ」って出てきてくれたんです。ぐちゃぐちゃになった家を手でまさぐりながら。
たとえば、こんなことがありました。西宮で知り合ったおばちゃんが、僕が東京に帰るとき、「私たちに夢と希望を与えてくれてありがとう。」っていう手紙をくれたんです。 「なぜ」って聞いてくる友達がいる。「なぜボランティアなんかするの?」でも、僕にはこう答えることしかできないんだ。
たとえば、こんな…。
ボランティアに行って思ったこと
吉田 愛梨
私は2月下旬から3月中旬まで、兵庫県の西宮にいました。西宮での主な活動は、炊き出しや避難所訪問、個別ケア、救援物資の仕分けや管理でした。ひとりではどうしようもないことが、現地の人々や集まったボランティアの手で着々とこなされていき、それに参加しているのだという充実感を毎日感じていました。
日本では「ボランティア」というとどうも福祉的なイメージが強いようですが、私は以前から、そして行ってみてさらにボランティアとはもっと生活に密着したものだと思っています。例えば学生なら、勉強やスポーツやアルバイト、もっと言えば遊びや恋愛とだって同じ感覚でとらえてよいのだと思うのです。
ボランティアは別に「すごいこと」でも「偉いこと」でもなくて、困っている人がいるから助ける人がいる、それだけのことです。それをたまたま被災地でやったからといってこのように寄稿するのもどうかと思いましたが、ボランティアは誰にでもできということをお伝えしたくて書いています。「私なんかにできるかしら」とか「今からじゃもう遅いかな」とか言うのを耳にしますが、たとえ1日でも、たとえ直接喜ぶ人がいなくても自分ができることがある。じゃあやろう、そう思うことで“ボランティア”は始められると思います。「死んだら人の世話になるんだから生きている間に他人の世話をしとかなきゃね。」という言葉が印象的です。私が西宮にいたのは短い問ですが、本当に良かったと思っています。被災者の方々やボランティアに集まった人々とのたくさんの出会いがありました。1日も早く復興がすすみ、被災地の皆さんが元の生活にもどれることを願ってやみません。
渡辺順子
阪神大震災のボランティアをおえて、横浜に帰ってすぐ、あまりの生活の違いに、心をどこかにおき忘れてきてしまったような、ぼんやりとした気持ちになってしまいました。神戸での惨事が夢なのか、この横浜での日常が夢なのか……
今、神戸での生活を思い返してみると、たったの10日間という短い間でしたけど、いろいろなものを見て、聞いて、考えて、とても感慨深い日々をおくらせていただきました。
大阪から神戸に近づくにつれて、屋根に青いシートをかけている家が増え、実際に道を歩いてみると、建物の崩壊の生々しさに思わず息がつまりました。震災後1ケ月半もたってから訪れたのに、地震のつめ跡が大きく大きく、そこらじゅうに残っていたのです。
災害のボランティアは、生まれて初めての経験でした。知らない場所で、知らない人達と、うまくやっていけるのか不安だらけでしたが、ボランティアの方々や地元の方々のおかげで、最後までがんばることができました。
被災者の方々に私には、想像だにできないような話をいろいろと直接伺うことができました。また、ボランティア活動にいきづまりを感じ、ボランティアや福祉について、未熟ながら仲間と一生懸命語り合いました。 月並みではありますが、たくさんの人に出会い、たくさんの良い経験をさせていただきました。地元の方々の力強さ、そして「若者」と呼ばれる、学生の行動力に素晴らしさを感じました。
神戸の復興をお祈りしつつ、私にボランティアという場を与えて下さったことに感謝したいです。これからもボランティアで仲良くなつた方々大切にし、大好きだった神戸再び訪れたいと思っています。
平野千秋
テレビや新聞を通じて毎日伝えられる被災地の様子を見ていたら、体がムズムズして、見ているだけの自分がたまらなくなりました。「行かなければ。何とかしなければ。」と思い、呆気にとられている家族に見送られ、出発しました。
友人を捜すために行った東灘区では、テレビで見た時とは全く違う衝撃を受けました。静まり返つた、人のいない住宅街、供えられた花、散乱する生活用品。「何もかもを失う」ということは、どういうことなのか、横浜にいた時ほ全く分からなかったけれど、それがほんの少しだけ、分かったような気がしました。その町の中で、チラシを配っていた子どもたちの、人なつっこい笑顔がとても印象的でした。子どもたちの心の中には、この震災はどう残っていくのでしょうか。暗い影だけを残さないように、と願います。
活動をさせて頂いた西宮市では、自分の非力さ、未熟さを痛感しました。何を今、すべきなのか、自分のしていることが本当に正しい判断に基づいたものなのか、被災された方が必要としていることなのか…様々な面で、迷い、悩むことばかりでした。
西宮から帰って、もう1ケ月が経ちました。威勢良く家を出たのに、結局何もできなかった、という気持ちが今でも強くあります。しかし、自分がしたこと、見て、聞いて、感じ、考えたこと、情けないと思ったことも、すべて忘れないようにしたい、これからにつなげていこう、と思います。そして何よりも、自分を励ましてくれた被災された方々、ボランティアの仲間達と出会えたことを、大切にしていきたい。「阪神大震災」という、とても大きなことに、様々な場所から様々な人々が集まり、動き回りました。−人一人の思いはそれぞれ違うものだったかもしれませんが、どこか同じ、共通するものがあったのだと思います。“役立たず”の人なんてきっと一人もいないんだ、そう思いました。
’95.4.29
今、思うこと―
小平直子
5月に入りだんだんとじめじめムシ暑い日が顔を出すようになってきた。夏になると毎日シャワーを浴び、好きな時にアイスを食べ涼みながらゴロゴロする日が、またやってくるのだろう。
震災から3ヵ月余。私が神戸より帰ってきてから1ヵ月。様々な人々と出会い、語らい悩み考え、しようと思っていることと、できることのギャップ…色々な中途半端を置きざりにして今、私は東京に居る。そしてまた普段通りの生活の中に居る。ここに居れば、自分の生活があり、ペースがあり、以前とまったく変わらない自分が居る。何不自由なく欲しい物はすぐ手に入る生活。
震災当所から何かしなければ…とずっと思っていた。月日が経つにつれ、今回の事を他人事のように思っている人達、忘れ掛け様としている人達−その中に自分を入れない為にも…様々な思いを胸に神戸に行った。
すばるの人達と日々生活していくうちに自分はなんと無責任な気持ちでここに居るのだろうと何度も思った。私達は短い間だけ。この間に何をしようとしてるのか、できるのか。矛盾ばかりの10日間だった。
帰ってきてから1週間位は色々と考えていた。だんだんと色々な思いが薄れていく。皆と熱くなつた日々が夢の事のように。しかし、神戸は元には戻っていない。そこにはまだ、当り前のように制約された生活が営まれている。だんだんと新聞の記事は小さくなり、やがては風化されていくのだろうか。だが、復興は始まったばかり。神戸の人達が以前の生活ができる為にも今こそ一人一人が、できることからしていかねばならない。しかし、さりとて何から始めていいのか、何ができるのか、今の自分には、さっぱりわからず、毎日何かしなくちゃと焦りながら過ぎていく、今の私が居る。
“ぶつかり合い”それは現実。皆、神様に創造されたもの!
― 今回はフィリップさんにお話をうかがいました。―
Q.M.0.P.Pのことを知ったのは?
神学生の時、私の指導司祭は、小さい兄弟のこととか、フランシスコ会のこととか、話してくれたが、興味がなかった。ある日、彼は、ジャック・レーヴの所に行くことをすすめた。助祭の除階式のあと、ジャック・レーヴに会って、フリブール、(ジャック・レーヴがいた所)へ行った。少し試して、共同体の生活があり、祈りがあり、宣教するために労働者として仕事をしていて、私ま今までエンジニアの実習をやったことがあるが、どういうことか、わからなかったが、やってみようと思った。宣教するためには、その柱が必要と思った。宣教はイエスのことをあかしすること。あかしするのはイ工スの霊と共にある体験をしたのをのべ伝えること。
Q.その頃、ジュリアーノとレミもいましたか?
彼らは私よりもはやかった。人によって違うが、私は神学の勉強が終わっていたので、仕事の資格のために電気工事の職業訓練校に行った。レミもいっしょだった。トゥルーズで。そして、エレベータの会社に1年位つとめて、その後、日本へのすすめがあった。
Q.いつ司祭になろうと思ったか?
5才頃から。両親の友人に神父がいてよく家に遊びに来ていてよく見ていた。中学、高校の時よい神父に出会った。12才の時堅信を受けた時、聖霊が私に宿っていると信じられたから、二つのことを考えた。明日のことを心配しないように、それから司祭になりたいと思った。両親と代父(神父だった)にそれを言いました。
Q.日本にきて何年ですか?
日本にきて18年。1976年9月10日。羽田空港に着きました。
Q.第1印象は?
空港の人々の顔をみて、皆違う顔だと驚きました。日本に来る前1年間位、日本語の勉強をするために日本語の先生と留学生に会って、日本人の代表と思っていた。
Q.M.0.P.Pに入って何年めだったのですか?
2年目だった。その前は、教会の司祭になるために勉強して、1年位、助祭になって実習の時、バランシエンヌ(北フランス)の教会を手伝っていた。その町は共産党の影響がつよかつた。信者は少なく、北アフリカからの移民もいた。週末、教会で教会学校とか、若者達に出会ってあまりその時、私に合っていないと感じた。司祭になっても、共同体の生活が必要なものだと思った。宣教するために、生命の生活を大事にして、仕事をしながら司祭の生活をしようと思つた。
Q.神父が労働する意味は?
パンを得るために仕事をしながら社会に組み込まれて従順のことを学ぶ。いつも従順を果すさまたげにぶつかるから。
Q.日本に来てからどうですか、或いは外国で生活する体験は?
5才の時、ブルターニュからベルギーに引越した。父は、フランスの北の方で働いて、家族はベルギーに住んでいた。戦争で破壊され、北フランスで住居が少なかったから。言葉の問題(その地方はフランス系)がなかったが、外国人として小学校の時感じた。その他にアルジェリア人が1人いて、彼はやさしくて、頭のいい人だった。私達は親しくよく仲間をつくった。サッカーがとても上手でビー玉もよくやった。話がとても上手でその時アルジェリア人は、りっぱな人と思っていた。
あと毎年、夏に中学生と高校生の時、サマーキャンプでドイツに行った。学生の若いクリスチャンの活動だった。“福音と生活”というテーマで、午前研究とか勉強、午後遊び。ボーイスカウトのよう。ドイツでサマーキャンプをやったのは、政府から援助をもらったと思います。政治的にドイツとフランスの和解するために。私達は戦後だったけど、父の世代は、占領の時代のことがあったので、少々センスが違っていた。日本も戦後50周年記念でやっているけど、何かが足りない感じがする。
それから母が、イギリスで英語を勉強するために行った学校にドイツ人の女性がいて、戦時中、戦後、全く便りをしなかったけど、ある日、母が持っていた住所で手紙を出したら、2週間後、手紙が来た。それから家族で交流があり、娘さんが家に来て滞在した。私も、ドイツに行って夏休みを彼女のところで過した。ドイツ人のこととか、少し食事のことが違うとか、景色も違うと思った。ドイツはきれいで、清潔な感じがした。技術的にも評判が高かった。
その後、兵服のかわりに2年間、レバノンに友達4人で行った。私は先生として働らいた。フランスの占領だったので、フランス語でできたし、よく迎えられた。レバノンはアラブの国で春から6月まで緑がいっぱいだけれど7月から、黄色いイメージ。枯れてしまう。
Q.住まいとか、食べ物とか違うでしょ?
レバノンほ、商業と農業の国。ベッカーの谷の豊かなところにいた。昔から麦の穀倉地帯。ブドウ畑もあって、ブドウ酒もおいしかった。この2年間で休みの雰囲気があった。その時代に、戦争が起こった。イスラエルとヨルダン。夏休みをはやくはじめて、レバノンまで及ばなかったけど帰る準備をした。レバノンに行って、私が今までいた北フランスの太陽とちがう輝きがあった。私の住んでいたところは雲が多くて、レンブラント、ゴッホとか、ブリューゲルとかの画家が描いた空。私の大好きな空。そして、レバノンではじめて、夏の湿気に出会った。
Q.太陽と湿気。日本の準備ができていましたね。その後どうでしたか?
2年間、自由に生活して、仕事をして、少し給料をもらって、遊んで、旅行したり、朝寝坊したり。あとがたいへんだった。フランスに帰ったら68年の学生の革命があって、私も 変わったけど、フランスも変わっていた。精神的に、バランスを見つけるために1年半ぐらいかかった。その時、司祭をつづけるかどうか、迷っていた。6ヶ月位、エンジニアとして働いた。社会の価値観が変わっていた。誰も、大事なことは何であるか、わからなかった。特に若い人。
レバノンに行く前に、フランスで発表された“見えないものを見ているかのように”(ジャック・レーブ著)を読んでいた。その本は私に大きな影響があった。5年間位、その本の内容を思いめぐらしていた。
Q.日本に来て、初めの頃と変わったところは?
デパート。外国のものが増えた。若い外国人も増えた。
Q.若者についてどうですか?
今、フランス語の聖書のグループで、フランス人の若者と出会う。就職したばかりの人。日本にいて、外国のことに興味がある。せめて2人は日本にきて、イエスの道を見つけたと思います。フランスで、自分の道を探す人が多い。フランスの新聞によると、アジアの宗教に興味がある人とか、インドのことか、麻薬とか。人工的なパラダイスを味わう。いろいろな若者は、自分の道を探している。日本のように今、オウム真理教の例で、社会のことがあまり好きでなく、社会のことから離れて、導く人を捜している。けれど、若者は悲しみとか苦しみとかを支えるために、薬のように、霊性的な指導者を探している。死のことか、傷ついたところから逃げるために。
Q.信仰とちがうのですか?
え、まぁ、信仰は、誰かに出会って、信頼して、その方に信頼しながら少しずつ出会う。私達の傷とか悲しみ、絶望、失敗は私達を待っている方に出会う可能性です。
Q.フランスの若者は日本に来て、文化とか違いをどう思っているのでしょう?
はやく言ったら、日本に来て、人間に出会う。日本に来て、例えば、友達に出会うと自分の人生の一部だけ分かちあって、他のところはかくす?西洋人にとってショック!まあ言いすぎかも知れないけど、分かちあうために制限がない。ある西洋人は、その体験に出会って、がっかりして、日本を去る。他の人は人間的に新しいことがあると信じる。日本人もそういう所を説明するために言葉がたりない。心を理解するために、暗い道に入って傷つけ合いながらも、受け入れることは必要です。日本で長く続けたら、同時に、他の国で生活したくない。傷を受けるけれども、同時に愛の体験もする。一部理解し、一部理解できないけど、相手は、私と出会いたい、相手は私とのつながりを結びたいと感じる。それを受け入れると新しい体験をする。小説の愛と、具体的な愛は大変違います。
Q.はぁ〜!(ため息!)聖書の勉強会のよう!
フィリップが、フィリップになるために、日本が必要。私は、西洋人になるために、日本で生活して、毎日、毎日新しいつながりに入って、他の道がないと今日まで考えた。明日ちがうかも知れない。
例えば、男性と女性の世界も。日本で若者は早く夫婦つくらないか?西洋人だったら、はやく夫婦になりたい。私は体験がないけど、夫婦は個人的な使命。日本では祖先と子孫のことが大事。夫婦の愛の誕生が向こうでは大切。感情的な分かち合いとか、その中に神の愛のしるしが入ってる。家族で、父と母の使命入っているけど、ちょっとちがう。
本当に見方を正すために、聖書を読むのは必要なこと。聖書がなかったら、毎日新しい見方をもらうことはできない。同時に、共同体の生活も。彼らの存在がなかったら、反対のことが出てこない。ぶつかり合い、それは大事なこと!はじめは大変だったけど、いつも、大変だけれども、毎日、新しい見方をもらうために、役に立つ。
日本人とのぶつかり合い、兄弟を受け入れるのも同じ。先程いったように、日本がなかったら、フィリップがいない。日本がなかったら、兄弟達とのまじわりにフィリップはどうでしょう? .
Q.ひぁ−!(ため息と感心するばかり!)
夫婦としてありたいと思う西洋人達は無意識的に個性を成長させるために、相手の存在、相手といっしょにいるのは必要なことを感じている。若者は今も、そう考えていると思う。 いつまでもそういう考えを持っているかわからないけども……!
こちらで、相手はじゃま。ぶつからないように生きている感じ。聖書がなかったらぶつかり合いがなかったら、深い信仰として、わからない。
弟子達も、イエスと一緒に人生を共にしたけどうまくできなかった。私もぶつかって…!
何回か日本に来る前に、どうしてやさしい世界がないかと考えていた。戦争がないとか…。もし私達は頭を使ったら、もっとうまく考えたら…。もっとやさしい世界ができると考えてた。しかし、ぶつからないようにしたら、世界は失敗した。今、第3世界でとか…。今、戦いのところがいっぱいある。そういう道に入ったのは、父と母の死、そして人間的な生 活の失敗がある。
Q.異文化で暮らすこと、結婚とか異なるものに出会う体験ですね?
私は、数学とか、物理を勉強したので、現実を守って気をつける。分析してよく間違えるけど、現実は理想の世界ではない。ぶつかり合いの世界と思う。
Q.ジョギングをしているそうですが?
ジョギンクは、仕事のあと20分位。(いつもできるとは限らないけど)汗をかいて、体はリラックスして、他のことは忘れる。びしょ、びしょになって、うれしい。汗は大好き。あとで銭湯に入って…!日本の銭湯はすばらしい。銭湯がなかったら、今のように仕事はつづけられない。リラックスして、リフレッシュ!
Q.最後に職場でどうでしょうか?
私の仲間は家に帰っても機械のことを考えているけど、私は、大学生の時、24時間、数学と神学のことを考えていたけど、今の生活は仕事が優先ではない。仕事で、パートタイマーなので制限があるが、いい社長さんなので。最初社長と、その息子さんと3人だったけど、今他の若者も入った。ぶつかり合いが何回かあって、ある日若者は“私を創ったのは、父と母とではないか。神様は私の存在の中に入らなかった”といった。彼を通して、仕事の考えがよくわかった。理解できないことがあっても、心配しない方がいいとわかった。残業も少しずつやると(前は全然やらなかった。)今、だんだん変わってきた。平安になった。社長も言った。“フィリップ、よく変わったね”と。今、本当におもしろい!仕事で4人(社長、息子と仲間)が説明するが、70%しか分からない。だから、火曜日(火〜金まで働く)に前の週の間違いの結果がわかる。“火曜日の驚き”がある。おもしろいでしょ?生きている人間は、皆、神様の創造物!
《感 想》
N.日常生活の中で人と関わり、国籍等関係なく、神様を通して「自分」を養っていることに感心しました。
E.フィリップさんの静かで力強い優しさはやはり、いつも神様のことを見つめているからだと思った。噛めば噛む程のある言葉を出す方です。フィリップさんのお話を聞いて下さ い。絶対優しい“自分”に出会えます。
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何一つ持たない者の心の大きさ 叔父を訪問するために中国に帰ったTeresa Tongは上海の雑誌にこんな事が書いてあるのを読みました。 「上海の貧民窟で、或る年老いた夫婦が町のゴミ捨て場で拾ったものを食べて暮らしていました。そこにはいろんな物が捨てられてありました。最近では赤ちゃんまでも…そしてそのふたりの夫婦は、そんな子供7人も自分らの子として育てていました。 彼らの愛情に満ちた行いは人々やジャーナリストの注意をひくことになり、記者はインタビューに来て、こう尋ねました。 “あなたたち自身が食べるものもない生活をしているのに、どうしてこんなに沢山の子を養子にしたのですか?” “毎日、私達は何でも見つけた物を持って帰ります。そして或る日ゴミの中に、生きている小さな子を見つけたんです。どうして拾わないわけにいくでしょうか?” “でも、どうやってその子らを養うことが出来るのでしょうか?” “天は授け、天は養う”(中国の諺) 拾ってきた子供たちに飲ませるミルクとは、ゴミの中から見つけだす粉ミルクの缶を洗って作ったもの。その雑誌には子供たちの写真が載っていましたが、愛されていることを信じている子らの明るい笑顔がありました。 そうです、このふたりの乞食(浮浪者?)はマザー・テレサのことばを証しています。 「神は生まれて欲しい子供たちが皆受け入れられるくらい、大きな世界をお造りになりました。但、私たちの心が被らの望み、受け入れるほど大きくはないのです。」
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≪報告とお知らせ≫
○3月18日 チャリティーコンサート六本木で
出演者の方、ご協力ありがとうこざいました。心、和む一瞬を過ごさせていただきました。収益は(20万円…他のものも合わせて)西ノ宮のすばる福祉会へ送りました。
○5月3日〜5日“聖書の旅”
千葉市のマリア・センターにて、“放蕩息子”のことを学び楽しく遊び、少しの雨天にもかかわらず、皆とても良い笑顔で、それぞれの生活にもどっていきました。子供達は“神様への手紙”を書きました。
○M.0.P.Pは認められて、30年。
世界の兄弟達が集まって“みことばのあかし”をすることを分かち合います。(7/31〜8/15)イタリアのマジョーレ湖で。
【編集後記】
○この半年、日本でも大きな出来事がありました。
“流された涙が忘れられるがないように”
“真理を求める心が消えることのないように”
“愛の中に歩みつづけることができるように”
ふりしきる雨の中で、夏の輝きを待ちつつ。
○M.0.P.Pの兄弟の総会が、この夏に予定されています。実り豊かでありますように
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